森守のブログ

放送と社会問題について

RADWIMPS「HINOMARU」事件 続き

前回、「HINOMARU」の歌詞とその背景にある日本の言論空間の問題を書いたが、「HINOMARU」だけ取り出して叩くのも卑怯だと思ったので、いくつかRADWIMPSの足跡に即して、RADWIMPS直接を叩くというのではなく、RADWIMPSが書いた曲を踏まえて、再び「ナショナリズム」について考えてみたいと思う。

hitookmysou.hatenablog.com

問題は「RADWIMPS」そのものよりは、「ナショナリズムとの距離感」

再度確認するが、私は愛国心や愛国ソングそのものを否定し切るのは難しいと思う。その事は前回触れたので、読んでいただきたい。

事件後、軍歌研究者や左翼は「歌詞に具体性、統一性がない」「戦争責任を回避している」と技術的、倫理的問題を問うていたが、私もこれに同意する。

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 またRADWIMPS側からは炎上騒動に対して「謝罪」の意思が表明されたが、しかしながらお決まりの「傷ついた人がいたならば」という慣用句的表現で、向き合わなければならない瞬間に逃げの言葉を使った事で、単なるタブー問題として処理されてしまった感があり、残念であった。

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Twitter上では一連の流れで、右翼は勿論「日本を大事にして何が悪い」という反応を示していたが、ファンと思われる方が特段日本の右翼的じゃない人も含めて、曲を支持しているのは、単純にこの歌が日本の音楽の中のどういう流れで生まれたのか、について考えずに、単純に新奇的だったり曲調が良かったり、いわゆるぷちナショナリズム的な感覚と共鳴したからだと思う。それくらいには「軽い歌」ではある。

ただ、どうにも論争が「愛国心」そのものを巡る対立になりそうで、左翼=個人主義VS右翼=日本主義となり、結果的に「ナショナリズム」そのものを否定しきれない左翼が負けて、右翼が薄く広く同意を得るといういつもの顛末になりそうなので、ここで一応左翼だと自分を置いて、「健全なナショナリズム」があるかどうかそれなりに考えてみたいと思う。

RADWIMPS」が持つメンタリティは、日本人と離れていない

まず、RADWIMPSの足跡だが、彼らの中にある「ナショナリズム」はおそらく一般人とは大きく乖離していないだろう事は、「HINOMARU」でさえそうだし、過去の曲からも言えると思う*1

今回教わった中で、RADWIMPS=味噌汁’sということがあったが、その味噌汁’sの楽曲に「にっぽんぽん」があった。確かにベタに受け止め過ぎるのも危ういとは思うが、9割は安全だし、むしろいい曲だろう。食やコミュニケーションの文化性、そこから生じる「われわれ性」まで否定しきったら、おそらく人間集団として意味を無くす。誰といつ歌うかが問題となることはあっても、曲の中で表現されている日本人は標準的だし攻撃性もない。

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故にであろうが、その延長線上に右翼的だけど軽く書いてしまった「HINOMARU」であり、「右でも左でもない」発言だったのかなと思う。しかしながら一部右翼もそうだが、日の丸や祖先崇拝についてあまりにも軽く考えすぎている。自然なことと自覚せずにいることとは、表現者の場合は責任において違いがある。自覚して向き合うのが表現者なのだから、多少なりともそれと向き合って欲しかった。

では、今回は単純に「右翼叩き」だけをすればいいのであろうか。それでは当の右翼や右翼の言う「ナショナリズム」に薄く広く同意する人たちから「言論弾圧」「表現の自由の侵害」「自然な感情の抑圧」だと言われてしまい、現にイデオロギーを超えて抱えている「ナショナリズム」については、右翼だけに持っていかれて、左翼も多くは持っている「ナショナリズム」が自己否定されてしまう。

左翼は、政府の打倒か「民主主義の徹底」を通して、現状とは別の社会を実現せねば論理的な一貫性はないのであり、それが実現するまでは「ナショナリズム」を負っていると深く自覚したほうがいい。

マニフェスト」に見る奇形的政治観 「HINOMARU」に至る前史としての彼らの認識能力

今回、RADWIMPSについて私も軽く考えすぎていたが、彼らの曲・MVには「マニフェスト」というのもある。これも当人らから見たら「右でも左でもない」のだろうし、左翼的だけと言い切れるかは分からないが、出てくるのが「ゲバ棒とヘルメット」というTHE・学生運動五星紅旗・人民服のパロディなので、少なからず何らかの左翼に対する印象を持っているのだろう。

www.youtube.comただ、正直このMVはおかしい。HINOMARUは「主体性なきナショナリズム」という点で愛国ソングとして失当だったし、細かい表現の過ちはあるが、スルーしようと思えば出来る。しかしながら、「マニフェスト」に出てくる構図は「日本での左翼」と「中国共産党中共)」をごっちゃにして描いており、RADWIMPSの現状認識は少なくとも一貫性はなく、パッチワーク的であると確信出来た。

以下細かく分析するが、まず周りをヘルメットを被った群衆(日本での左翼運動家のスタイル)が覆っている。何らかの抗議ないしは支持の声として集まったのだろう。

ではなぜRADWIMPSがなぜ人民服を着ているのか。人民服は体制的なものであるから、中共と一体的であると言えるが、歌自体は終始一貫「脱政治的・反政治的」な政治メッセージの歌である。体制礼賛では全くないし、それを揶揄する表現もない。ここで違和感覚える。その横に警察的な人達がいるので、RADWIMPSを守っているようにも見える。実際曲の中盤以降、ヘルメットを被った群衆がなだれ込む。そしてその人達はRADWIMPSと揉みくちゃになるが、警察的な人達により排除される。では、「群衆 VS RADWIMPSと警察」なのか。だが歌詞全体は「俺と愛する人が大事、争いをやめよう」という極度に抽象的なものである。MVの映像と合わない。

そもそもであるが、ゲバ棒を持ちヘルメットをかぶった人達と人民服を着た人達は出会う機会があったのであろうか。少なくとも日本の学生運動の歴史の中で中国政治に関与する目的で組織的に大陸へ渡った事例を寡聞にして知らない。また中国人民の抵抗運動、天安門事件などでそのようなスタイルが発生した事があったということならそういうニュアンスとして理解できるが、ではなぜ日本人が中国政治を揶揄しているのか。後ろには日本の国会議事堂がある。天安門広場を借りるのは確かにハードルが高いので現地でやれとも言わないが、中国政治を揶揄したいなら歌詞も「総理大臣」ではなく「国家主席」のがいいだろう。日本政治を揶揄したいなら「人民服と中国国旗」ではなく素直に「特高警察と日の丸」のがいいと思う。RADWIMPSの服装も国民服にしておけば「当局の目を気にしつつも反政府の立場として歌っている」と言えなくもない。だが、その場合歌詞が「どっちもどっち、俺は愛に生きる」とだけしか聞こえないので、逆にMVの過激さが浮く。

つまり、私としては1.設定がちぐはぐ、2.構図を整理して理解しようとしても歌詞とMVが不釣合い、という点で消化不良である。

正直、これなら「HINOMARU」のが陳腐ではあるがよくある繰り返されたテンプレとしては理解出来るのでまだ作品全体としてはマシである。パッチワークがネタとして受ける日本社会というのは、大塚英志氏がむかし酒鬼薔薇聖斗事件やオウム事件で批評していたが、ここまでテキトーなものがいわゆるメジャーから出るのは末期だと思う。グーグル画像検索したほうがまだ客観的な気もするし、政治的モチーフを適当にやり続けると「ナチスの制服をMVで使う」ような轍を踏むと思う。

左翼は、「RADWIMPS叩き」もいいが、「暴力批判」はどこまで真剣に?

ここまでだいぶRADWIMPSバッシングとなってしまったが、RADWIMPS叩きに加わった左翼側の問題として、「どこまで左翼は暴力を否定できるか」という事を問う意味で、「ジェニファー山田さん」を取り上げたい。

この歌の歌詞から漂うのは「暴力主義」である。左翼ソングのパロディとも言えるが、パロディ元があるという意味では、もしこれに左翼が反感を覚えないならば片足を突っ込んでいると思う*2

そこで左翼が今回反発を覚えたという「暴力」についてだが、歴史用語として暴力革命*3という概念があり、それを根拠付けるマルクス主義は日本の戦後のある時期において一世を風靡した。文化人の中には早くから暴力主義や革命思想から足を洗った者もいるが*4、少なくとも日本社会党は文化人の拠り所であったし、日本社会党自体は革命思想、つまり議会主義からの脱皮を想定していた。全ての文化人とは言わないが、1960年代当時全共闘の運動を支持していたのは、議会の外で活動する意味を考えて、時には議会を占拠するという考えがあったからであろう。でなければ、現在再び政党政治と別のものとしての路上運動を取り上げる意味が分からない*5。知識人の中には「路上は非暴力主義の場としてである」と定義している方もいるが*6、ヨーロッパやアメリカなど路上運動が日本より多い国では、度々暴力が露わになる。また運動家の中には否定される方が多いと思うが、例えば沖縄の辺野古前での運動には、避けがたい暴力と暴力のぶつかり合いがあり、それでもって何とか抵抗運動が維持されている側面もある。

私も暴力/非暴力、暴力の根源について悩む事はあるが、左翼は議会活動での限界や逆に統治機構としての議会に反感があるからこそ、そうした路上運動に参加するのだろう。全く否定してしまってはパワーが無くなると思うし、運動当事者として悩んでいる方達を無視してしまうと思う。

そして、それらを実際に路上で繰り返してきたのが左翼である。実際いくつかの歌は「フォークソング」として娯楽化した点もあるが、路上運動の一体感を出すためである。それを歌うことは「政府と対峙する」者として、半ば戦争に参加する事と同じであった。前回の記事の中でパレスチナの「愛国ソング」に触れたが、抵抗運動というのは全く何者の力を借りない事ではない。政府と対峙するには、暴れる力もあると認めなければならない。

それを踏まえた上で、「ジェニファー山田さん」という歌を見ると、血一色とまでは言わないが、そこには「爆弾」の二文字がある。具体的な事例まで考えて書いたとも思わないが、過去には「東アジア反日武装戦線」という組織が日本の左翼運動の中にはあり、三菱重工爆破事件など数多くの暴力事件を引き起こした。無論、ここまでの直接行動を容認した左翼は当時ですら少数派であるが、マルクス主義の中から生まれたという点については、自覚的に反省しながら取り扱わなければならないと思う。現在でもマルクス主義的なものは、「資本論の再評価」という形で続いており、これに代わる何らかの日本なりの理論的支柱は見つかっていないのだから、理論家とて常識として知っておくべき事実だろう。

HINOMARU」は確かに分かりやすい右翼を介した愛国ソングである。では、左翼はどんな歌を残してきたか。全てを引き受けろとも言わないが、「破壊衝動」というのは左翼も伴うことのあるものであり、そここそ保守側が左翼を否定的に評価する点ではないか。もしこれに全く反論する言葉を持っていないならば、「私は保守だけど、太平洋戦争批判だけはします」とだけ言えばいいのだ。保守だけど太平洋戦争批判をする、これ自体大変だとは思うが、少なくともマルクス主義とは絶対的に距離を取りたいならばそうするしかないだろう。またはナショナリティが全く違う人達からの告発というのを想定するしかないと思う。マルクス主義を借りつつも、過去を切り捨てて「日本の左翼」が軽くなるのを私は容認出来ない。RADWIMPSを「歴史の欠如」という意味で批判するなら当然、左翼も何らかの歴史を背負うか、マルクス主義の歴史を負わない何かを提示すべきである。

「右でも左でもない」ものとしての可能性 軽いことを自覚し突き詰める事を肯定したい

先に「にっぽんぽん」について触れたが、この歌は非常に「軽い」歌だと思う。歴史を前景化させることなく、日常にある食や文化を歌った責任を負わない歌である。そしてあえて若者がいま「ナショナリズム」を提示しなければならないならば、私も「日常」しかないと思う。実際「右でも左でもない」という彼の心情は分からなくもない。右翼は天皇との近さを争い経済的利益を損なうと思えば「反日」をラベリングし、時に政府の合法的暴力以上に暴力を伴う事があるし、左翼はある種の宿命だが政府を倒そうとすればするほど血を見る可能性を高めるし、議会制民主主義の可能性をどこまで信じているか、少なくともマルクス主義からは出てこない。その点で右翼も左翼も何らかの意味で歴史や倫理を背負っており、日常とは離れざるを得ないのである。そういう先鋭化・原理主義者を嫌って、日常を確かめたり自然なものを愛でるのは、本質主義に陥る可能性を秘めながらも、極めて否定し難い「意味もなく懐かしくなる」ものだろう。彼らの軽さは、日常にこそ向けるべきであり、国の歴史に求めるものではないのだ。

私は、右翼が徹底的に肯定するナショナリズムを全否定することは、ナショナリズムの欲望自体が広く薄く存在する限りは出来ないと思う。ただ、前回の記事で注意したように、そのナショナリズムが不適切に喚起され向けられていくものがあるとしたら、断固拒否したい。もう少し地に足の着いたナショナリズムがあっていいはずだ。

右翼/左翼から降りてみたとて、保守とリベラルというある程度の思想的対立は残る。ただ保守/リベラルという二分法もこれからの時代どこまで通用するか分からない。私も多くの点でリベラルだとは思いつつも、天皇制や国民国家の幻想について何も自身で払拭出来ていない点において保守的だと思わざるを得ない。幾人かの知識人は「リベラル保守」というのを押し出しているが、心情的には理解できるし支持していいと思うが、理論的に詰められるのか分からない点もあり、私は逡巡している。

今後も「右翼も左翼も肌感覚と違う」という空気を感じ取った歴史を背負わない若者の中から、「右でも左でもない」歌が出てくるとしたら、知識人の製造物責任であると思う。私も思想に被れた一人として、責任を負うとまでは言えないが、もどかしさを感じる。

*1:HINOMARU」がそこまで日本人のメンタリティと乖離していないことは、毎年8月の「反戦ドラマ」や日々の報道番組での「『日本人』を主語にした報道」を見れば端的に分かる。そういう空気の積み重ねがおそらくぷちナショナリズムを支えている。

*2:私は半世紀以上前の人間ではないので歴史としてしか知らないが、例えば頭脳警察の「赤軍兵士の詩」というのがある。ググれば見つかるので興味があればそちらで。

*3:議会制民主主義を否定して、前衛党(日本共産党)が代わりにプロレタリアート独裁を果たして、政治を善導するという一連の流れのこと。暴力を用いねばならないというのは、ソ連の成立史に依っているのであり、日本共産党としては武力を用いない「平和革命」というのを主導するという理解もあるが、日本共産党自身「日本青年民主同盟(略称:民青)」という実力部隊があり、民主集中制=党内独裁を敷いている以上は、体質的に現在でも否定もできないと考える。

*4:代表的、そして最前線で実践し続けたほぼ唯一の人物としては吉本隆明であり、彼の徹底的な「大衆肯定」は「右でも左でもない」ともある意味リンクする。

*5:無論「路上運動という点だけでもって全共闘の全てと一致させるのはおかしい」という反論もあり得ようが、であるならば1960年代のそれが参照され続け、少なくとも否定を積極的にしないのはおかしい。

*6:小熊英二は「社会を変えるには」の中で、対話性としてのデモを取り上げるが、デモ自体は身体性であり路上の占拠にある。実際「警察からの不当な弾圧」への抵抗は起きている。抵抗は物理的身体を抱えている以上は暴力を伴わざるを得ない。