森守のブログ

放送と社会問題について

RADWIMPSさん、あなたも「逃げます」か?

アニメ映画「君の名は。」の主題歌を担当したことで、テレビメディアでも浸透した音楽バンドのRADWIMPSが「HINOMARU」という“愛国ソング”を作ったことで、ネットでバズった。

www.huffingtonpost.jp

正直、RADWIMPS自体への関心は「君の名は。」程度だし、当然RADWIMPSの歴史も全く知らないので、卑怯ではあると思うが、歌詞を眺めて「音楽界も悪い意味で、日本の言論に影響力及ぼしそうだな」と思った。

なので、ここから書くのは私の抱く「思想や言論人としての態度としてどうなの?」であり、RADWIMPSの音楽性や作詞者の人格、ましてやこの歌を好む人を否定するものではない。無論、薄く広くはRADWIMPSへの批判であるが、私がこれをネタに批判したいのは、こういう歌や言説が生まれる土壌のほうである。

 

歌のどこが問題か 愛国ソングが求められる場合と使い方の問題

では、まず客観的に歌詞の意味を摘示する。この歌は、多少古めかしい言葉を使ってこそいるが、すごく分かりやすく「祖先崇拝、祖先との一体感、命を懸けて戦いに行く私、守るべき場所と人」という戦争とその背景にあるナショナリズムないしはパトリオティズムを感じさせるものである。

但し、相変わらずこういうものは「逃げ」が潜んでおり、私はそれが嫌である。何が逃げなのかというと、「祖先とは具体的にどれ」「何とこれから戦うの」「目の前で起きていることなの」という主に3つである。

私がこういう回りくどい言い方をしているのは、戦争そのものを否定し切るのは難しいと考えているからである。例えば、現在進行形でパレスチナイスラエルから入植による被害を受けているし、それへの対抗として“火炎だこ”を打ち上げている。またシリア紛争も当初の政府打倒の不満は少なくとも“ナショナリスト”としての動機であったろうし、現在も抵抗運動をその場で行なっている人たちは政府軍から生命を脅かされると思っているから戦っている。

おそらくほとんどの戦争はそれが起きる前までは、いわゆる主戦派も含めて、本当に戦争が起きて、双方に大量に死者が発生すると思っている人は多くはいないと思う。また非戦気分が大半であり、日常に戦争が侵入する事は断固拒否が真実だと思う。しかしながら、一度戦争状態に入ったならば逃げる人たちが多くいる一方で、祖国を守るために武装し戦う人間もそれなりにいる。故に戦争は長期化するし、戦禍は拡大するのである*1

その場合、戦うと決めた人たちが自らを鼓舞するために“愛国ソング”を用いるのは、至って当然の反応である*2。それが文化の力、歌の力である。そういう意味では、RADWIMPSの歌も愛国ソングであることは自明だし、否定すべくもない。

そして、私が強調しておきたいのは先に挙げた「何を守り」「何と戦い」「それは目の前で起きていることなの」という3点である。私が先に戦地の具体的な例を挙げたのは、どう見ても戦争が起きており、そこで抵抗している人がいるからである。私もゲームで戦争の気分を味わう場合、同時に快楽を感じるが、それはだいたいフィクションであると割り切っていたり、例え実際の戦争を舞台にしていたとしても、“駒と駒同士をぶつけ合うだけ”だと明確に認識しているからである。まさかプレイヤー同士で殺し合うと、そのダメージがリアルに伝達して、現実で何らかの肉体的精神的損害を受けるだなんて思っていない。故に、私はゲームでは、“ナショナリズム”を全開にして快楽を享受するのである。当然、プレイが終われば冷静になって、ゲームはゲームだとその場で気持ちを切り替える。

逆に言うと、もしそれが現実と地続きで、このコンテンツを消費する事は現実政治と気持ちの面では繋がっており、その事により総体的に現実の誰かを傷つける、と思った場合はとりあえず必要性がない限り留保する。

私が問いたいのは、RADWIMPSがどういう事を意図してこの歌を作り、どう皆に消費して貰いたいかである。プロの作品である以上はアマチュア以上に、発表に重きを置いているだろう。そしてその場合は製造物責任も負うはずである。この歌をどういった場合、どういった人に消費して貰いたいか。そこに答えられないならば、「作りたいから作った」以上のものではないと私は感じるし、責任を負えない人たちなのかなと感じる。表現の技巧にまでは踏み込まないが、この歌がもし好きなアニメやゲームの主題歌だったならば、私は殆ど躊躇なく身震いを覚え、自らが鼓舞されていると思うだろう。実際そういうコンテンツを想像できるが、それだけRADWIMPSの力はある。

改めて問いたいのだが、「何を」大事にして、「何と」戦い、それは「まさに今」なのか。少なくともこの3つについて、歌詞から推理できる事には触れておきたい。

「何を」大事にしたいの? 私と日本を繋げる事の危うさ 自覚の困難さ

第一に「何を」大事にしているか。結構重要な点なのだが、抽象的な表現が多いので、具体的な事件や人物などは当てはめづらいと思う。しかし一般的に歌というのは皆に共感して貰うためには表現を曖昧にするものである。例えば、「大切な人との別れ」を歌ったものは多いが、作者の実体験や思いと消費者のそれとは本来は全く別のものである。言葉は一般的に抽象的で相互理解を図る為に使われるわけだが、他人の気持ちにも届くというのはそういった抽象性がうまく機能した場合である。この事自体は否定するべき事では全くない。但し、文脈を共有していない者同士で、言葉を交わした場合、表面上では意識を共有化出来たと思うかもしれないが、文脈としてマジョリティとマイノリティで明らかに落差があれば、それはマジョリティとマイノリティの持っている分断線を強化する方向になり、同じ言葉なのに架け橋に全くならない*3

例えば、典型的だが「古(いにしえ)」「この御国の御霊」。これは祖先崇拝のテンプレのようなものであるが、人間として当然持つであろう父母、祖父母、それを永遠に遡っていくと何故か日本という総体になるという発想である。何故かというのは、当然遡り続ければ、日本人はおそらく南方系や北方系、半島・大陸から渡ってきたものの総体なので、現在の日本列島という地域に収まらないからである。その事は天皇陛下も自覚しておられ、「韓国とゆかりを感じる」 の発言をしておられる*4。また現在はより多様性が目に見えて明らかであるが、いわゆる白人や黒人、ヒスパニック系の人たちも他国からやってきて、我が国に定住している*5。つまりは、「現在の血筋をたどると、日本という総体にたどり着く」などというのは物理的には間違いだし、多様性を否定するものであるのは明確である。別にその事自体はハッキリ歌われていれば、それなりに筋は通るのだが、「古くから」「血筋を辿れば」というのを愛国ソングのテンプレとして利用しており、守るべき対象としての「日本」を考え抜いた末に我が事化しているとは思えないのである。確かに、歌詞から感じるイメージは、私を含めて聞いた人にとっては、身震いを覚えるほどにリアルな感覚かもしれないが、「家族と日本を直結させてしまう」という文化的に慣れさせられたものに依存しており、「では日本は実際は何なのか」に直接的には答えていない。故に歌詞にも「意味もなく懐かしくなり」とあると推察される。

実態として「家族的連帯と日本という総体の繋がり」におそらく当てはまるのは、「天皇陛下」というこれまた多くを想像上に頼った存在であるが、私はその思想そのものを全否定するのも、現に天皇陛下を戴いている以上は簡単ではないと思っている。なので、祖先崇拝とナショナリズムという関係があるならば何らかの形で明確にすべきだし、そうではないならば思想的には異端であるので提示すべきだし、全く考えていないならば無知なので多少は恥じて欲しい。消費する側も愛国消費というのは、あまりにも負うべきものが大きい事を自覚し、正統性もなく作詞者も責任を負いきれないであろう歌にナショナリズムを寄せるよりは、素直に「君が代」という由緒ある国歌があるので、そちらを用いるのが良いと思う*6

「何と戦うの?」 暗黙の了解としての「敵」とそれを口に出さない=隠蔽する事による責任回避

第二に、「何と」戦うかであるが、現状のメディア環境、政治を考えれば十中八九、北朝鮮は入ると思う。人によっては韓国や中国も入れるだろうことは、否定しきれない。では、その事は歌詞にあるかと言えば、無い。これは3つ目の必要性の観点とも関連するが、主観的には想定しているものがあるにも関わらず、それを言葉としては入れない。各自自由に想像して下さい、と暗黙的にするのである。非常にずるいのである。第一の「自然なナショナリズム」以上にずるい態度である。確かに祖先崇拝は自然である。よほど論理的に詰めなければ矛盾点も見えづらいだろう。だがこの「何と」の部分は意図的に隠している。なぜならば、もしそれを明らかにすれば対象へのヘイトであり、同じことを立場のある人が言えば、外交問題になりかねないからである。でも、戦争を歌うならばそれは承知の上でなければならない。少なくとも我が国を懸けているということは、私的なことではあるまい。知っていながら隠している。こういう疑心暗鬼にも似た事を歌うのは非常に危うい。今の日本には、自身や家族が、現にあるいは過去に「朝鮮籍」「韓国籍」であったという朝鮮半島にルーツを持ついわゆる在日の方がいるし、例え韓国籍で、韓国にアイデンティティがあるとしても、複雑な気持ちは変わらない*7。それは明治期に日本が占領し、その後偶然に日本が崩壊したので、空白地帯が出来てしまい、分断されてしまった朝鮮半島の1945年以降の歴史が物語っている。日本は9割の方が知らないと思うが、韓国/北朝鮮では積極的かは別にしても、知らずに通せない常識である。

であるからこそ、北朝鮮の脅威は減っていないにも関わらず、朝鮮半島有事を何度も現実の危機として招来する事を韓国の方たちも躊躇してきたのだし、現に反対している。別にRADWIMPSという近頃の若者にそこまでの歴史教育を求めるのも酷だが、日常的に北朝鮮の脅威を感じているとしたら、「韓国の人も嫌なんだろうなあ」くらいは感じて欲しいし、感じなければ私は抗議したい。

また仮に、これが韓国や中国ならば、韓国に関しては杞憂に過ぎないし、中国も一触即発という程度には戦争の危機がないと私は感じるので、反論したい。それが第三の「必要性」である。

「眼の前に迫ったものですか」? 戦争を選択肢としてみる事の軽さ、あるいは現実政治と認識のギャップ

まず、韓国は現実に危機を感じているのは北朝鮮である。ミサイルもいくつもソウルに向けられており、最近も延坪島砲撃事件で一触即発の事態に陥った。日本とは確かに竹島問題があるが、実効支配しているので戦争を仕掛ける理由もない。あるとすれば日本側から戦争を仕掛ける事だが、本気だとしたら短気に過ぎると思う。まずは国際司法裁判所に諮る事が先決だろう。

中国は、こちらのが北朝鮮の次にリアルだが、確かに外交上何度も日本側と口論を交えている。尖閣諸島中国漁船衝突事件東シナ海ガス田問題の2つは最近議題に上がったものだが、常識的に考えて、中国は大国主義的な振る舞いをして、南シナ海進出、果ては太平洋進出できる能力を着実に蓄えている。この事はテレビメディアも含めて一般に流布しているし、右翼の専売特許とも思わない。

但し、こちらも日本は基本的に受け身である。つまり日本が戦略的に東シナ海や東南アジア諸国の影響力を競うというよりかは、少しずつ中国が大国主義的になってきたので、脅威に感じているという段階である。アメリカは、明確に世界戦略を持っている国であり、かつ自由に軍隊を配置できる能力を持っているが、日本は客観的に言って、意図を持っている人がいるとしてもそれは経済的にしか実現できず、軍事的には連携が限界であって、日本が主導的な役割を果たすのは9割ない。それは良くも悪くもアメリカの影響力が大きいし、そこに日本は自覚的に頼っているからである。

もし、日本が中国と直接的にやり合おうとしているならば、日本を引っ張ろうとしているその人を止めに入りたい。そのような客観的状況にないからと。

北朝鮮もそうだが、中国相手にもし戦争の機運を煽っていくべき時だと考えている人がいるならば、私はタイミングとして拙速過ぎて、右翼的だと断じざるを得ない。戦争は偶発的面もあり、少し前は北朝鮮がミサイル暴発もあるのでは、とまことしやかに囁かれていたので、焦る気持ちも分からなくはないが、今は静観すべき時である。音楽のリリースに国際情勢が絡む事はほぼないが、音楽業界の事情だけで出すには、あまりにもタイミングが悪い。中国に関しては長期的話であり、北朝鮮も濃いグレーから薄いグレー程度には、危機は去ったからである。無論危機がないとは言わないが、今まさにとも思えない。なのでこのタイミングで歌を出して戦争を訴える必要性も感じない。

そもそも私は、危機を迎えてから戦争は煽るべきと思っている。あくまでも言葉上でしかないかもしれないが、戦争が起きたらそれは既に対話の段階を超えており、やらなきゃやられるという意味を戦争は持っている。その状態になってまで非戦の立場を取るかはその人次第であり私は自らの身体を張って止めるのも一つの立場ではあると思うが、戦争に主体的に参加する側も状況によっては正当性が高いという例はあると思う。だからこそ先に具体的な戦争状態の例を挙げた。

もし、本気でRADWIMPSが戦争を望んでいないならば、明らかに外交を邪魔しているし、望んでいるにしてもその覚悟を示すだけの形跡が歌詞にはない。とりあえず気分だけ戦争参加への機運を高めただけか、高めておいて曲が終わったあとのカタルシス効果を狙っているという商品としての理屈(悪く言えばウケ狙い)かのどちらかと思ってしまう。RADWIMPSが誠実に戦争を考えているならば、まさか「気持ちだけ高めておく」という事は無いと思うが、果たしてどうだろうか。

RADWIMPSもまた「日本の申し子」 日本の責任の取れない態度

長くなったが私の言いたいことは、「曖昧なまま気持ちだけ動かされて、それが結果責任を負えないレベルの事と何らかの形で繋がっている、とかいう責任もへったくれもないのは大嫌いだ」ということである。この歌の発表のタイミングは、サッカー日本代表の試合と近いので、素直に考えれば、椎名林檎のNIPPONと同じレベルの愛国ソングであると見なすのが自然である。

しかしながら、そういう場合でも、サッカーと戦争を同一線上に見ており、その欲望は実際には「戦争をイメージした国歌が欲しい」というのとかなり一致している。

よく日本は、世界一平和な国歌を持っているとネットで自称する人たちがいるが、かなり的を射ていると思う。他国を侵略する歌詞ではないし、戦争をイメージしたフレーズが全く無い*8

おそらくこれが本質的なのだが、日本は戦争を主体的にするつもりがおそらく無いのである。君が代を眺めてみても、祖先崇拝ないしは天皇崇拝までは分かるが、戦争を率いる感じはない。でも、戦争自体は過去にあった。そして、日本はそれを受動的に遂行したと言われている。無論実際には指導者はいて命令書もあるが、昭和天皇本人ですら、「自分の意志ではない」という旨を述べており、その気持ちは極東軍事裁判にかけられた当時の政治家たちも同じだったという*9*10。客観的にはどこまで真実かは別にしても、そういう気持ちを持っているのが日本人なのであろう。

その気持ちと一体である君が代は相応しいとも言えるが、その主体性を隠すのを後から後から愛国ソングとして模倣しているとしたら、かなりまずいと思う。戦争を煽って欲しくはないが、主体性を喪失しているとしたらそっちの方がもっとまずい。私が一番問いたいのは、この主体性の喪失である。そしてRADWIMPSの歌も漏れなくその類型の一つだとほぼ確信している*11

いつか、まともな愛国ソングを聞いてみたいものだなあと私は切に願う。ここで「そこまで主体性を気にするなら書けばいいじゃん」と言われたら、私はその時間をゲームプレイの方に費やしたいので断る。なぜRADWIMPSがゲームやアニメ主題歌として作って発表しなかったのか。誠に残念である。ゲームやアニメなら臆面もなく、主体を発揮して書けるはずだと私なら思うのだが。

 

追記(2018年6月12日):「HINOMARU」以外にも、「にっぽんぽん」、「マニフェスト」、「ジェニファー山田さん」があることを教わったので、それも含めて記事を書きました。

hitookmysou.hatenablog.com

*1:実際は、「逃げたくても逃げられず、その場に留まる」人が大半であるが、今回は捨象する。

*2:例えば、フランス革命では「サ・イラ」という革命歌が歌われたという。。またパレスチナでは「ガザの人々の心情を歌ったものだが、同時にガザでの虐殺を黙認している国際社会へのメッセージ」(引用元そのまま)としての“反戦歌”であると同時に愛国的な歌がある。

*3:例えば、「卵焼きが好き」ということで話が盛り上がるとする。甘いか辛いか、出汁はどうするかなど色々広がりうる。でもそこに卵アレルギーの子がいたらどうだろうか。私ならば、卵アレルギーの子がその会話の中にいると分かった時点で、卵焼きの話はやめて話題転換する。それ以外にも方法はあるかもしれないが、少なくともその子を気遣う事はした方がいいはずである。こういった場合に、言葉は本来コミュニケーションを取るためであるはずが、分断を露わにするのである。

*4:天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)にて。

*5:2018年の東京都23区の新成人のうち8人に1人は外国人だという。

*6:君が代自体も必ずしも正統性があるとは言えず、国歌と言えないという立場もあるが、現実問題明治政府が国歌として定着させたし、多くの日本人がそう考えている以上は、国歌であることを疑わない事まで批判するのも難しいのでここでは留保する。

*7:朝鮮籍」は北朝鮮国籍を意味せず、「朝鮮籍」「韓国籍」という分け方自体に歴史的背景や日本政府の責任放棄があったことについては『ルポ 思想としての朝鮮籍』(中村一成)を参照。

*8:リベラル派がしばしば、「君が代」は戦争へと繋がるから嫌だ。と発言する場合があるが、それは戦争利用されたことと「天皇制が戦争動員を含んでいる」というのが主な理屈である。しかしながら、戦争利用は事実だとして天皇制が戦争動員を含んでいるというのはどこまで真実か難しいはずである。なぜならば、封建制度だけが戦争を惹起するのではないことは第二次世界大戦後の自由主義陣営、共産主義国が証明したからである。心配をするなとは言わないが、「国家」をどう御するかはリベラルであろうと難題である。

*9:「実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」『終戦の詔』一部抜粋。

*10:『「空気」の研究』(山本七平)など。

*11:この点、愛国ソングではないが、少なくとも「HINOMARU」よりは何が言いたいかハッキリしていたものとして「ピースとハイライト」がある。ただし、肝心の桑田佳祐自身が責任から逃げてしまったので、残念な結果に終わった。