森守のブログ

放送と社会問題について

「放送法改正」についての解説のようなもの

はじめに 

最初に断っていくが、私はメディア研究の専門家でも、ましてや政治の専門家でもない。どちらも関心はあるが、プロフェッショナルでは断じてない。ただ、基礎の基礎を大学で受講し、少しだけ教授と話をしていただけだ。なので、専門の話を深く知りたいなら、他を当たって欲しい。私自身、最近メディア研究フォローしていないので、むしろこのことに関して発信している方がいたら教えてもらいたい方である。駆け足で書いて、プロフェッショナルから見たら「雑」すぎると思うので、こんな記事より早くプロフェッショナルの文章を見たい方である。一応参考書籍を挙げたが、手元にないまま書いているので「放送法」だけサクッと知りたいなら、参考書籍に挙げた山田健太氏の本を読めば済むと思う。

そして1万字書いた割に、「結論はこの程度か」なので、なんとなく読みたいなら最後だけでも良い。大したことは書いていない。

ただ、あまりにも粗雑な話が左派も右派もTwitter界隈で多かったので書く。

あと前提として「安倍政権のイデオロギー性」と「どちらか特定の勢力」に寄って立つ事はないようにする。というか、安倍政権のこの問題での内情が分からないので「安倍政権独自」の分析は出来っこない。中立に書こうとするというのは、あくまで目標で、私自身左派なので右派には厳しいが、それでも私なりの左派批判はする。ただ右派がいつも言うような内容の左派批判はしない。

 

 

 最初に言及したように、素朴過ぎる意見が多いのであまり生産的なものはなかった。というか、元の時事通信のリード文がひどすぎる気がする。「党派性」が出ないわけではないが、それは押さえつけるものでもないし、あとで述べるがネット優位になった以上仕方がないのである。

政治的公平の放送法条文撤廃 党派色強い局可能に - 共同通信

ただ、一つ一つをきちんと見るとそれなりにメディア環境について考えられるので、触れていこうと思う。

左派ってそこまで力ないわけじゃないよ

まず第一に「右派系の番組はあるが、左派の番組はない」という点である。何をもって分けるかは難しいが、左派はそれなりにある。ただ、メディアとして認知されていないのである。

またそれはおそらく放送法の政治的公平性とは直接は関係ない。日本は素晴らしいことに、メディア研究に限らず大学教育が担保されている。世の中には大学教育すら整っていないところもあるので、戦前から続く「教養」というのが少なからず存在しているのは貴重なのである。優れたドキュメンタリー映画人間性を描いた作品が、テレビ報道以外にたくさん存在している。これは右派左派問わないことで素晴らしいことだ*1

ではなぜ認知されないのか。ほとんど唯一の理由は、商業主義である。つまり、視聴率が稼げないのである。フジテレビの「ノンフィクション」は昼間だからマシなほうで、NNNは素晴らしいのだが、日曜深夜という考えられる限り最悪の時間である。TBSの「ザ・フォーカス」もそう。NHKは定期的にドキュメンタリー・報道を通常のプライムタイムに流しているが(NHKスペシャルETV特集BS世界のドキュメンタリーなど)、あまり耳目を集めない。それなりに認知はされているが、あれが数字を取れるとは思えない。あくまでも民放のバラエティを念頭に置いてではあるが、それがこの国の「ドキュメンタリー」の地位なのである*2

また、報道に限っても、それなりに担保はされていると思う。ただ、どう見ても一つあたり最大でも、滅多にないが、30分。通常は1分程度の細切れか、多くて5分程度だろう。これではとてもではないが、分析は浅くなる。ゆえに分かりやすさが求められる。結果として「常識」に適うようになる。報道の安全保障としては無いよりはあった方がいいが、明確な危機(クライシス)が生じた場合、基礎体力が減っていて危険なのは、福島第一原発事故で分かっている人も多いと思う。ホントはもっと多様なクライシスがあるのだが(私自身分かっていないのが多いと思う)、報道が気づく能力を落としていると市民はもっと平均的には下になるだろう。もしこれを「日本は左派がない」というなら、確かにそうだと思う*3

ただ、これは結局は商業主義、視聴率主義、テレビ局でのバラエティ優位が招いているものなので、法律で決まった「政治的公平性」を現場が忖度してるとか単純なものではない。そんな粗雑な社会問題などあったら全部法律で決めればいいことになる。あくまでも主役は現場だし、メディアは特にその側面が大きい。

そこまで政府が管理できるほどじゃないよ

第二に「放送免許やめろ」というものだが、改正案をちゃんと見ていないが、時事通信の記事読む限り、おそらく今回の改正は放送免許が形骸化する、つまり政府の関与が無くなる方向だと思う。というか、そうでなければ「政治的公平性」を変える理由がない。一応安倍政権で起きた「高市早苗大臣による放送法4条発言事件」やそれを援護射撃した「放送法遵守を求める視聴者の会」の運動を見れば分かるように、一時期放送法4条にこだわったのは右派・安倍政権のほうである。そして決め台詞は「放送法に反したら放送免許取り消し」だったはずである。それを今回政治的公平性を考えないようにしようというのだから、少なくとも放送免許などに関わる事由は一つ減る。そもそも、日本では色々な偶然があったと思うが、放送免許取り消しは、いわゆる椿事件を除いては、論争すら起きていない。少なくとも人口に膾炙するレベルでは無いと言っていい。それだけ、日本は社会常識と放送は乖離を起こしていないのであって、昨今を除けば、危機を経験していないのである。コレ自体はいいか悪いか言いづらいが、少なくとも「放送事業者にとっては」いいことだろう。

また、先走ったことを言えば、放送免許自体無くなるだろう。それは、「放送と通信の融合」が進むからである。現状でも、地上波並とまでは言わないが、視聴者が気にしない程度には通信=インターネットのレベルが上がっている。詳しくないが、5Gになると「現実と見紛うレベル」になるらしい。おそらく放送並のラグがゼロの時代も近いのだろう。そしておそらくこれが技術的な意味での最大の原因だ。つまり、放送事業者にだけ特権的な意味がなくなるのである。インターネット事業者は、現状一般的な刑法や経済法以外の特別的な規制はほとんどない。公職選挙法に多少あったが、それも現実的に無くなったはずである。だからこその今回の改正である。一方で、インターネットという殆ど無差別の(勿論一般法、刑法の名誉毀損やプライバシー侵害には服する)世界があり、放送事業者だけ「政治的公平性」とかいう放送事業者自身も殆ど認める「美文・政治的宣言文」を付けているのは、はっきり言って欺瞞である。放送事業者自身これまであまり気にしてこなかったと様々なところで発言しているのに、今回だけ騒いでいたら逆に滑稽である(現に騒いでいるのは、メディアの素人だけのようである)。

なので、第二の憂慮も大したことはないし、問題を認識すら出来ていない。

FOX化?もうしてるじゃん

第三の「FOX化が進む」であるが、まず第一・第二で見てきたように、放送事業者は政治第一で進んできたとはあまり言えない。そして放送法は内容面ではほとんど関係ない。繰り返し言うが、質や社会的認知の問題は商業主義のせいだし、政治的公平性を外す=自由化は、技術的要因が大きい。で、FOX化であるが、確かに今回の日本での改正同様に「政治的公平性」を外したアメリカでは、FOX化が進んだ。つまり、ネトウヨ番組の巨大化である。ただ、これはアメリカの場合も極端に日本と違うわけではない。無論アメリカの方が比較的プライムタイムに政治的トークが多いし、そもそも政治的意識が高いし(高すぎてポリティカル・コレクトネスで揺れているし)、と政治的には異なるところがあるが、基本的に商業主義は同じと言える。つまり、FOX化もFOXがイデオロギー的な動機でもって巨大化したというよりは単純に「儲かる」から巨大化したのである。

日本でもたまに「日本会議が操っている」「正力松太郎がメディア支配を進めた」という論、右派による左派批判でも「中国韓国が支配した」とかあるが、私の認識は、その面も絶対ないとは言わないが、9割は商業主義である。もう少し細かく言えば、経済的合理性を考えて、その次にイデオロギーである。人は結局はパンがなければ生きられないのである。ただ、ナショナリズムとの関係で言えば、資本主義とナショナリズムはある程度親和性があるので、広義の「イデオロギー」までは批判しない。これは右派だけでなく左派もある宿命だと思う。

ここは読み飛ばしても本筋と関係ないが、とは言っても、左派・右派ともにこれに無自覚なせいで今回の粗雑な批判が吹き上がっているが、メディアとナショナリズムの関係は深い。というかほとんど必然である。歴史のお勉強になるが、プロテスタンティズムとメディア論という教養みたいな話を殆ど必ずメディア論を取ると習う。これは、プロテスタンティズム=キリスト教の現地化(キリスト教界隈の方がいたらすいません、凄い雑ですが他分野ではそう扱います)をした結果、「国語が誕生した」という話である。当時は聖書がラテン語(日本など漢字文化圏で言えば「漢文」)で独占されていたが、ルターの宗教改革以降、「国語」で聖書を読むことが進んだことにある(何で改革になったのってところは、あまりに逸れるので割愛)。当時、出版が発達したこともあり、結果として「国語共同体」とも言える、現在で言えばコミュニケーションの基本が国境の内部では「同化」、国境の外部では「差異化」された。勿論これ以外もナショナリズムナポレオン戦争だったり、資本主義だったりと色々あるが、メディアとナショナリズム、特にイメージの共有という意味で、主に文字の面から支えたのはメディアとしてあるだろう。当時はインターネットと同じくらいの革命として、イメージの共有を文字が担ったのである。何しろ「会話」と比べて、遠くへ同じ内容を伝えられる。現に今も文字を使っているが(映像と比べ格段に落ちるものの)それなりのリアリティは伝えられる。それが、メディア論としてのプロテスタンティズムである(キリスト教内部の話とは全く関係ないです)。そして、一度出来上がったナショナリズムは、あとは「自然化」して、ほとんど所与のものとして現在に至っている。たとえ映像だろうと音声だろうと、イメージの共有のためであれば、現在まで殆どナショナリズムから逃れがたいだろう。当然だが、イメージの共有と言っても全くの他人とは共有しづらい。「戦争」のイメージの共有は出来ても「太平洋戦争」ならどうだろうか。「戊辰戦争」なら?太平洋戦争は国ごとに違うだろうし、戊辰戦争などそもそも歴史教育を日本で受けていない限り殆ど国境線と同じだろう(例外は認めるし、そこに面白さがあるのは分かるが本論ではないのでご容赦を)。結局はメディアはナショナリズムで成り立つのである。それは左派もであり、震災のイメージの共有も、かなりの程度国境線と同じだろう。むしろ「同じ国民だからこそ訴求力がある」と感じている左派のが多数ではないだろうか。それくらい逃れがたいのである。

で、ここからFOX化との関係であるが、FOX化自体ははっきり言ってメディアの逃れがたい課題である。基本線としては「アメリカだから」とか「どれどれの法律のせい」とかではない。ナショナリズムの一つとしての現象である。ただFOX化にも特有のものがあるとしたら、やはり創設者ルパード・マードックである。ただ、ルパード・マードック自身は、必ずしも偏狭なナショナリストではない。少なくとも、チャンネル桜の社長ほどではない。彼自身は、かなり経済的合理性で動いてきている。気になる方は以下の番組をご覧頂きたい。現在の彼のナショナリズムは否定しないが、必ずしもナショナリストとして特別だから、ではないことはご納得いただけると思う(解説はジャーナリストであり、メディアの現場から放送を見てきた神保哲生さんなので、説得力はあると思う)。

メディアの公平性ってなんだ!?メディア帝王とジャーナリズム - 2015/09/19 21:30開始 - ニコニコ生放送

私も「FOX化」に懸念がないわけではない。ただ、それは安倍政権だから、でもないし、ましてやトランプ政権だから、でもないし、他の理由でもない。ありふれたナショナリズムをどうカッコにくくれるか、という教養の話である。無論これは左派にありがちな「特定のイデオロギーにコミットメントすれば解消出来る」とかいうたぐいの話でもない*4。ただ、この「教養」というのがかなり厄介で、というか難しい。知識としてはあっても、ナショナリズムというのは資本と同じくらい自然なシステムであり、システムから全く孤立するなど難しい。なのでカッコに入れるしかないが、そのカッコに入れるにしても難しい。お金だって、「私はあえて、高いけどいいものを買う」と言ってみたところで限度があるだろう。「搾取されるよりも生きがいで仕事だ」とか言ってみても、その欲望すら経営者によって「資本化」されてしまう。ナショナリズムも、言葉も習慣も全く通じない他人と同居出来るか?という動物としての当たり前の根源に基づいており、やっと数万人から数億まで「何を言っているかは分かる」というのを形作っているのげ現在なのである。そしてそこにメディアもある。「何を言っているかは分かる」は、文法や単語が分かるという意味であって、「意味がわかり、共感できる」までいくと、もっと小さくなるだろう。それがナショナリズムからまた進んだ先の現在の「ポピュリズム」である。私は少なくとも、現状をそう見ている。

で、FOX化というのは、ポピュリズムをうまく使いこなす、ポピュリズムの波に乗ったモノを言うと私は思う。ポピュリズムは右派だけの専売特許じゃない。ナショナリズムが左派にもあるように、ポピュリズムも動物としての動機が拭い去れない以上、左派も十分ポピュリスティックである。私はポピュリスティックは、感情に基づいている以上、全て悪くはないと思っているが(エンターテイメントの全てはポピュリスティックだろう)、政治の場に現れた時はさすがにカッコに括らないといけないと思っている。ただこれも難しいのでこの場では答えを出せないが。

そしてFOX化は、日本でも既に進んでいる。この記事の最初の方で商業主義について触れたが、日本はとっくにFOX化している。それはニュース女子だけを言うのではない。私は以前から、ワイドショーの報道化という言葉がピッタリなのではないかと思っている。それは、ワイドナショーやミヤネ屋、もっと前から起きていたとは思うが、最近でも「ワイドショーが言論を独占する」現象は珍しくないどころか日常化していると思う。ワイドショーは決して報道番組ではない、と思いたいが、昨今はあれが報道番組として消費されているので、報道化、ではなくそれが普通かもしれない。そしてその普通が結果として、「報道」自体の存在を本質から変えようとしている。

まず、報道は「社会問題を代表するもの」だと、私は定義する。この場合代表とは、リプレゼント、象徴という意味である。政治学で言うところの間接民主主義である。あまり細かいところに立ち入らないが、間接民主主義とは決して妥協とかそういうネガティブなものだけではない、そこには人間が対話し、気づきを与えてくれる場である。昨今の政治状況を思うととてもそう見えないかもしれないが、単に欲望をやり取りしても、人間社会は成り立たない。そこには「対話」、コミュニケーション、相互理解が必要である。そして報道とは、社会と当事者との対話を促すものだと私は考える。そこには単に、「報道番組」という作り手だけでなく、取材対象の当事者や受け手もおり、最終的には当事者と社会とが互いに何かしらに気づきを得て、再び出会う場を作れるものだと考える。無論これは理想像ではあるが、そういうものがないとしたら、単なる伝送路であり、知らない他人を何も前提条件なしに盗み見ただけのものとなるだろう(意外とそういうのは多いのが残念である)。

では、「ワイドショーの報道化」とは何か。ワイドショーとはここでは、情報番組、つまり「実生活に役立つ知恵を得たり、エンターテイメントを消費する場」のことである。最近は「報道化」しているからややこしいが、元々はそうだと思う。そして「報道化」した結果、私たちはワイドショーを必ずしも全く別というよりも、「難しい事を難しい言葉で話してるのが報道番組で、難しいかもしれないけど簡単に話してるのがワイドショー」という感じで受け取る人が増えていると思う*5

この難しい/簡単という感覚は結構強くて、人間は「分かりやすいと正しそうで、難しいと判断つかないかむしろ間違ってそう」と理解するらしい。専門ではないので「そうなのか」レベルで聞いてほしいが、確かに実感と合っていると思う。

そして、結果として「ワイドショーの報道化」によって、報道番組で扱うようなネタもたまにか、むしろそれを売りにした「ワイドショー」や右に振り切った「ニュース女子」などがもてはやされている。ただし、分かりやすい事自体が問題というよりかは、「そもそも対話ってそんなに分かりやすいか?」というのが私自身の問題意識である。

純粋にワイドショーなら別に分かりやすいのもいいと思う。例えば、「美味しいカレーってなんだろ」とかいう事をテーマにするなら、「対話性」というのはほとんどなく、「あれもこれもいいよな」とか「これはネタとしてだけど、甘口の人とは無理だわあ」とかそういうレベルで収まるからである。別に難しい話などいらない。単純にそれぞれのセンスを傷つけない範囲で扱えばいいからである。

でも対話というのは、時にはどちらか、もしくはどちらも「傷つく」ものだと思う。傷つくということの中には、「傷ついた結果変わる」ことも含まれる。勿論弱者/マイノリティを傷つけるのは目的ではないが、少なくとも「報道」する場合社会は変化を求められるし、マイノリティ側も社会の葛藤を踏まえた上で最初の思いと多少変わりつつ、互いに歩み寄るものだと思う。時に「すれ違って」失敗することもある。それが対話だと私は思う。

そういう対話性を扱わねばならない報道番組と、分かりやすいものとして扱う、言い換えれば誰も傷つかないのを扱うのがワイドショー。本質的に違うのである。無論報道番組自体、時に(というか殆どだから困るが)対話性を欠いたままマイノリティを「問題」化して、理解不能なもの、悪魔化してしまうのが無いとは言わない。ただそれを肯定するのが多分に「ワイドショー」なのである。相手は理解しなくていい、ただ「知識」として得られればいい。なぜなら分かりやすいのがいいからだ。私は傷つかなくていい、相手は傷ついていたとしても。それが私はワイドショーの報道化の負の側面だと思う。実際ワイドショーで扱った結果「失敗」しているのが多い。分かりやすいところなら「宮崎勤事件からのオタクバッシング」であり(コミケ会場を指して、「ここに何万人もの宮崎勤がいます」などは「悪魔化」だろう)、右派はかなりそうだろうが「中国人・韓国人」の悪魔化である。相手を人間としてみないのに、人間を扱う。こうなると最悪である。単なる差別である。ワイドショーの報道化によって全てがそうだとは言わないが、自覚すらないのが私は怖い。

ここで多少「池上彰批判」をしたいと思う。この場合の池上彰とは、テレ東での選挙特番の池上彰ではなく、ところどころで社会問題を分かりやすく扱っているあの「池上彰」である。全てを見ていないので再批判は甘んじて受けるが、あの池上彰は「一見中立のその実ナショナリズムに加担している事を自覚させない」ものである。先程触れた、左派も右派も逃れがたいナショナリズムポピュリズムのことである。別にナショナリズムポピュリズムを捨てろとは言わないが、多分池上彰だけ見てても、ナショナリズムポピュリズムを自覚することはあまりないだろう。なぜなら「間違っていない事を分かりやすく伝える」のがあの池上彰だからである。そこには対話性はいらない。あれを見ている日本人の気持ちを逆撫でないように、うまく納得出来るように作るからである。そして対話性を大事にしたいなら、情報エンタメとしての池上彰だけを見てても何も育たないと思う。池上彰本人は、「情報の整理」をしているつもりだけかもしれないが、時に中立とはそういう危うさがある。ずっと中立のところにとか思ってると、次第に「私が傷つかないのが正しい情報」と錯覚していくのである。あくまでも受け手の問題とも言えるが、そういう受け手ばかりになると次第に受け手の理解度に合わせて「中立」も移動するから最初いたところと別のところに移動していく。そして大抵は左派も右派もナショナリズムポピュリズムから逃れがたいのだから、中立自体もナショナリズムポピュリズムへ寄っていく。

これはあくまでもそうなるおそれがある、というだけであるが、何が「中立」かは最初から決まっておらず、それを常に探していくのが私は大事と思っているから、最初から与えられた中立などクソ食らえだという意味に理解してもらいたい(無論私自身へ返ってくるブーメランなところが9割だと思うが)。

かなり長くなったが、私は「FOX化」をこういうふうに哲学的/思弁的に捉えたい。少なくとも左派が「ある特定の悪いやつがいて/悪いものがあって、それを直せばいい」という事では決してないと言いたい。無論右派にとっては「分かりやすくて上等、ナショナリズムで上等、私が幸せならいい」という人ならば、最初から聞く価値無いからブラウザバックでいいと思う(ホントは左派/右派自体分けたくないが、話しやすいのでこういうことにした。ただ、私は西部邁先生のような「理性自体にも懐疑主義を」という立場であり、またナショナリズム自体は良いこともあると思っているので、左派からは「おめえは冷笑系か何かか」というそしりは受けても良いとは思う。それだけ難しいことなのである)。

結論:自由化自体は賛成だし、その方がクリエイティブ。だけど、言論を名乗るなら「自省」も必要。

で、結論であるが、今回の放送法改正自体は、総論としては良いと思う。特に技術的な面で現状を無視出来ないので仕方ないだろう。アメリカでもケーブル放送が広まった結果、フェアネスドクトリン=政治的公平性を手放さざるを得なかったのだから、日本だけ抵抗出来ると思うほうが間違っている。間違っていないなら、インターネットを政治的公平性にさせて欲しい。私も政治的公平性はそりゃ欲しいが、ないものねだりである。ここではあまり語らないが、そもそもネットは政治的だけでなく、商業的、俗っぽく言えば「オタク」的として見ても多様である。何か特定の正しさがあるわけではない。時に、見るものの神経を逆なでるようなものもあるけれども、それが公共の福祉に反しなければ、放って置くほうがいいのである。放送が積極的にそうなれとも思わないが、そういう可能性を広げる「放送と通信の融合」自体は否定できない。

NHKは不思議なメディアで、右派からも左派からも評判が悪い。それはある意味「中立」だからだろう。しかしあえて言うならNHK的視点もあっていい。ただ、それはNHKだけが独占していいものでもない。もっと多様な「NHK」があっていいのだ。公共とは特定の一者が担えるものではなくて、公共をポジティブにみんなが出しあって対話したらいい。それはまさにインターネット世界(の理想面だけではあるが)だろう。ようやく放送業界も、インターネット世界を後追いしているのだ。

ただし各論では、商業主義や「中立とは何か」を考える上で、まだまだ日本に足りないのは多いだろう。商業主義は明らかに広告代理店がブーストしているし、主に言論に関わる「中立」についてはそもそも日本ではメディアリテラシー教育が根付いているとは言えず「メディアが悪いのは、特定のイデオロギーのせいだ、もしくは書き手がイデオロギー的だからだ」とか粗雑なメディアリテラシーが9割だからである。大文字の政治をイメージして、「ナショナリズムポピュリズム」について述べてきたが、実際は事はもっと複雑で、アイデンティティ問題、俗っぽく言えば「私の世界を大切にさせて」という、欲望問題という小文字の政治もますます大きくなっているのだ。小文字の政治はもっと難しいが、「問題」としてくくれる力、問題として認識しつつも相対化出来る力がますます求められるのが、現在なのだろう。技術的に解決出来る事も多いかもしれないが、今は過渡期である。

別に経営や経済全てに詳しくあれ、とは言わないが(私も殆ど知らない)、少なくとも「今日天気がいいのは、神様のおかげじゃなくて、高気圧が日本列島に居座っているせい」程度のリテラシーを身につけたほうがいいのでは、と思っている。ただし問題は自然科学以上に、社会科学ないしは人文科学は、「当たり前」を疑い、時に修行的なところがあるから、殆どの人が放棄してしまうのである。

ご存知の通り、インターネット世界はとっくに「砂漠的」である。辛うじてあるオアシスをみんながシェアしてるが、ひとたびそこから出れば、砂漠しかない。嫌なことばかりである。この場合のオアシスとは、各人が消費するそれぞれのコンテンツであり、砂漠とは、自分の感性に合わないモノ全てである。砂漠は嫌だが、かといってその砂漠は誰かのオアシスでもある。故に互いに対立する。ならば引きこもっていた方が良い。当たり前の感性だと思う。

そして互いに引きこもった結果、外の世界を指してこうつぶやくのである。

「この番組が悪いのは〇〇のせい」。少なくとも、たった2字かそこらで要約しようとしている人がいた時点で終わりである。安倍、反日電通云々。そんなのばかり見たあとで書いた文章です。

 

※2018/3/16 05:52 誤字脱字修正、脚注使って見栄え意識。

参考書籍

哲学的なことは林香里先生に依っています。

マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心

マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心

 

 立ち読みで悪いが、それなりにコンパクトに林先生の言うことまとまっていた気がするので、初めて触れるならこっちのがいいかも。

メディア不信――何が問われているのか (岩波新書)

メディア不信――何が問われているのか (岩波新書)

 

イデオロギー的には好まないが、ある意味「リアリスティック」なことを言うので、左派から見てもそれなりに有用。少なくとも、「政治的公平性」と「メディア生態学」を考える上では、一読はしてもいい。

 こちらは同じ問題、つまり「『放送法遵守を求める視聴者の会』問題」を研究者目線で見た方。

放送法と権力

放送法と権力

 

書き終わってから思い出したが、散々神保哲生さんと木村草太先生が語り尽くしていたので、これ見れば終わる気もする。


安倍政権の放送法の解釈は間違っている


放送法の中立公平はいかに担保されるべきか

*1:あとで貶すので先に褒めておくと、チャンネル桜社長もドキュメンタリー作家としてはそれなりに評価していいと思う。

*2:本筋ではないし、特に詳しくもないので省くが日本で商業主義とドキュメンタリーを兼ねられるのは「ドラマ」である。すべてのものとは言わないが、極めて作家的かつドキュメンタリー的なドラマもあるにはある。今期は「弟の夫」を見ているが、好例だと思う。

*3:これは何故か右派のが敏感だったが(三橋貴明氏が解説していたのが大きいらしい)郷原信郎氏が、「リニア談合事件」について書いていた。氏によれば「談合は目的としていたのではなく、談合せざるを得ない状況になったのが悪く、今回の事件は事件ですらない」らしい。確かに「談合は悪」というところでしか地上波では見られず、解説するにしても5分程度じゃ収まりきらないので、分析すらできないと思った。

*4:左派ですらなくてこれは全体主義という名こそなくてもそこらへんに落ちてる夢想主義だと思うし、ネトウヨとかパヨクとか宮台真司の言葉を借りれば「言葉の自動機械」である

*5:最近生まれた人ほどワイドショーと報道番組を峻別する習慣自体無いかもしれない。あくまでもメディア論としては歴史性も見るのでそういう感じということで受け取って欲しい。