森守のブログ

放送と社会問題について

「平成」を勝手に悪く言うんじゃねえよ

オウム真理教事件が急に「主要な幹部死刑執行」で終劇したことで、にわかに「平成が終わった」とされているらしい。

事実、平成は31年で終わりであり、巷じゃ「平成本」が色々置かれているので、色んな人が「平成」を語りたいのは分からなくはない。ただ、私はたまたま「平成生まれ」になってしまったのもあって、外野から「平成」を言われてそのまま定着するのに納得がいかない。特に「平成は経済も低水準で、色々事件が起きた時代」と総括されるのだけは断固阻止したい。

この記事を記す直接のきっかけとなったのは、私が購読している以下のブログである。

shionandshieun.hatenablog.com

ただこの人、嘘つきでなければ平成3年生まれらしい。たまたまであるがほぼ同時期に生きている人間である。なのに「平成は暗かった」と言いたげな内容である。100歩譲って昭和の人間が平成を悪く言うのはまだ分かる。先に生きてた人間ほど自身の時を基準にして、後の時代を「下り坂」とするからである。

でもそんな「昭和人間」のテンプレートをなぜ平成生まれの奴が真似るのだ?曲がりなりにも自分が生きた時代だぞ。以下、この怒りを元にして書く。

オウム真理教」は昭和の遺産です。

まず、勝手に「平成」扱いされているオウム真理教についてである。確かに、オウム真理教による地下鉄サリン事件というのは、平成7年3月20日に発生した。また松本サリン事件は平成6年6月27日である。平成も始まってしばらく経った頃であり、平成に起きた事件としては確かに見過ごせないくらい大きな事件であった。

ただ、常識的に考えて当時リアルタイムで見ていた「大人」なら知ってるはずだが、誕生自体は1987年で、少なくとも選挙出馬でにわかに知られる事となったのは、平成2年(1990年)である*1。確かに平成であるが、被選挙権も選挙権も昭和生まれの人間しか行使出来ないだろう。当時20歳だったとして、その大人は昭和45年(1970年)生まれである。ちなみに麻原彰晃こと松本智津夫は昭和30年(1955年)なので、昭和前期から中期にかけての人間である。そして選挙出馬のタイミングは正確には「昭和後半」と称するのが認識として正しいと思う。「歴史実証主義者」ならば年号にこだわるだろうから、1年でも誤差を許さないのかもしれないが、人文的に評するなら私は「昭和後半説」を推したいし、その方が歴史を連続的に捉えられると思う*2

また同じ理由でとんねるずの「生でダラダラ」の番組自体やそれに出演していたというのも、昭和後期だろう。より正確に捉えるならば「バブル経済期」の方が分かりやすいと思う。ただこの「バブル」というのも、慎重に扱わなければならないのは、バブルは「バブル崩壊」で終わったわけではない事である。これは経済学者が捉える「バブル経済」と私が生活感として捉える「バブル的」なことのズレを覚えている事からである。以下その中身を説明する。

まず、バブル経済の始まりは最も広義の「1986年説」を取る。多くの歴史教科書でも「プラザ合意」は知られているし、日本経済自体が堅調だったこととしてはプラザ合意と連続的に捉える方が良いと思うからである*3。但し、終わりは「1991年説」は取らない。なぜなら、TV番組や音楽シーン、社会の空気というものは、学問的な定義とは必ずしも一致しないからである*4

私が思う「バブルの終わり」ないしはバブル的な「なんとなく日本はいい」という感覚は、1990年代を通してあったと思うし、経済的な終わりも1991年よりもしばらく後の「1997年」だと思う。これは、1997年のアジア通貨危機と消費税増税による日本経済悪化により重きを置く見解だが、「バブル崩壊」の単純な意味である株価や土地価格下落と日本全体の景気が必ずしも連動しないことは、生命保険会社の破綻(日産生命保険)が初めて起き、北海道拓殖銀行の営業権譲渡や山一證券の廃業もこの年である事から正当化出来ると思う。

そしてこの「バブル的」なものの途中に起きたのが、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件である。確かに記憶の節約として「この2つの最悪の出来事」が起きたのと経済的なマイナスを一緒にするのは、一つの知恵であるが、もし単純に「バブル崩壊オウム事件は同時期だった」とか言われると、「それは偽史だろ」と言いたい。

もう一度説明すると、オウム真理教の成長期は87年-90年であり、バブル経済と重なる時期である*5。つまり、地下鉄サリン事件発生とタイムラグが5年以上ある。簡単に整理すると「バブル経済拡大→オウム真理教成長→(学問的な意味の)バブルの終わり→地下鉄サリン事件→(社会的な)バブルの終わり」という時系列である。*6

ちなみに社会学的な分析によれば、オウム真理教信者は「バブルの空気に嫌気が差して」入信した人が多かったらしい*7。勿論これは客観的な時系列にも合致する。つまり「ハルマゲドン待望論」は、実際に日本全体が暗くなる前から急激に広まっていたのである。この正確な理解がないと、単純な「平成は暗い時代、その1つとしてオウム事件が起きた」という錯覚を昭和の人間が作り、それを皆で消費するという嫌なことが起きる。

「小泉現象は平成的」か?

また、金村詩恩さんは「小泉現象」も平成的とするようである。これ自体は直接は否定できないし、「平成」をどうするかによって変わってくると思うので、より一般的な立場から「平成」を相対化する手法を取る。なので、ここからは「平成」を悪く言われるのがただただ嫌なだけの私の独断と偏見である。

まず、小泉現象自体は何ら平成特有ではない。昭和前期には近衛文麿が国民的人気を博したという*8。つまり、ポピュリズム的な政治というのは、民主主義であればどこでもどの時代でも誕生しうる。似たことは、戦後なら田中角栄がそうだろうし、政治路線ならば中曽根康弘が近くにいる。そして「政治主導や政治の刷新」といったことは、同じ平成に生きた細川護煕にも言える。

また小泉的とされているもののうちの一つに、派遣法改正など新自由主義化が進んだというのがある。ちなみに現在の安倍政権も似たような切り口から批判され、第一次安倍政権も同じ手法が取られているとする指摘があるが、単純に「小泉・安倍」とくくるのも難しいと思う。企業や役所の「ダウンサイジング」というのは、中曽根行革路線の頃には既にあり、また中曽根の行革を支えたブレーンには大平正芳の「大平研究会」のメンバーだったものが少なくない。仮に、小泉・安倍を単純に並べるなら、遡って橋本や中曽根を参照しないのは不自然だし、途中にある非自民である細川護煕も「政治にクリーンさ」という点で無視できない。仮にこれらの系譜を無関連とすると、数年ごとに異なった好みを持つ有権者という変な理解になる。私は「庶民は単純に負担がなくて、政治にお金のかからないところを選ぶ」と思っているので、中曽根ー細川ー橋本ー小泉ー民主党政権ー安倍を通して有権者の欲望は大きくは変わらなかったと仮定している。

無論、経済史や政治史を細かく見れば、確実に有権者の質の変化や経済状況で異なるパラメータを分析しなければいけないと思うが、昨今「新自由主義的」で雑にくくられて「とりあえず安倍とその親分だった小泉が悪い」とかいう分析がネット上に多いと感じているので、こういう事を注意書きとしておく。ここまで雑な分析はそう皆信じていないと思うが念の為。少なくとも「平成で起きた事は、必ずしも平成だけでは分からない」という事を言いたい。

もし「平成史を語りたいなら」 極私的平成史(アニメ漫画について)

また平成を文化的に捉えたいなら、1990年代よりも「平成独自」のものが育つ時間的余裕がある2000年代や2010年代だろが!と言いたいし、1990年代は1980年代と連続的に理解したほうがいいと思う。そして私が、「平成を生きた」とリアルに感じるのは2000年代からである。どの部分を平成とするかは大きく分かれると思うが、「平成3年」に生まれておいて、90年代と00年代の「オウムと小泉」を選ぶのは、その人が当時から政治かぶれだったか後から意図して選んだ記憶の世界だろう。真面目に「平成はこうだった」と言うつもりなら、これから殴り倒すための説明をする*9。ただ私の「平成」はアニメや漫画中心である。けれどそれは実際に当時子供だったから許されるはずである。主観的に子供時代を振り返って「当時の政治史を生きてたなあ」とか言うやつは私は「そんな子供いねえだろ」と敬して遠ざける。そして、私の感じる平成の方が当時子供だった平成生まれにとってはリアルだと思いたいし、後世からそっちの平成を知ってもらいたいと強く願う。

まず「平成は暗い時代じゃなかった」と力説するために、平成アニメとして「新世紀エヴァンゲリオン」がよく挙がる事について一つ断っておく。確かに1995年に放映され、2000年代に再び注目されたという意味で、平成を貫いているアニメなのだが、「オウム事件と重なるよねえ」とか文化系オタクが言うのを聞くたびに「いや、それを意図して作ったわけでもないし、そのレッテル貼ったの昭和の人間だし、作ったのも昭和の人間ですよ」と言いたい。それに安直過ぎて世代論として使えるのか私は今も疑問に思っている。無論この分析を真っ向から跳ね返すのは難しいのだが、その分析に立つとしても、先に説明したように、“昭和の遺産”としてのバブル的なパリピから逸れたものとして理解する方が正しく思うし、そういう理解をしてこそ「オウム事件」のメタファーとして共有できると思うからである。そして当時シンジくんと同じ年齢だとしてその人の生まれは昭和だろうし、リアルタイムにエヴァンゲリオンで何かを語っていたのは更に10歳上だろう。

また、こういった「アニメで社会学」というのは、少し前の宮崎勤事件からであり*10エヴァンゲリオンはたまたまその続きとして使いやすかっただけである*11。それで東浩紀なりが模倣して定着し、その後「オタク評論家」が「平成」世代のオタク自身から出てくるのは00年代からだと思うが、いわゆる「平成生まれ」全体がその「オタク」としての責任を負うことも無いと思うのである。何より「純粋にアニメを楽しんでいた子供時代」をあまりに捨象している。アニメオタクじゃなくても子供時代をアニメで過ごした人はいるはずである*12

そして、純粋に楽しんでいたアニメならば、レッツアンドゴーやベイブレードポケットモンスター遊戯王デュエルモンスターズ、ワンピース、NARUTOであり、漫画ならば同じく遊戯王、ワンピース、NARUTO、そしていちご100%だろうと思う。エヴァンゲリオンも2回目のブームの時は私も味わったが、それこそ自我が成熟し始めた中学生から高校生にかけてだったと思う。もし幼稚園や小学生の時にエヴァンゲリオンにハマり、精神世界に憧れた人がいたとしたら「あなたは仏陀?」と尋ねたい*13

私も「アニメで社会学」というのは、哲学かぶれになったあとは楽しめるジャンルであるが、その中でも「震災や事件と共に論じたもの」があまりにも“評論”として消費されるのを見て、それがベタに消費されると誠に嫌な感じしか残らない。似たことは、まどか☆マギカでも起きたが、これもたまたま震災と同時期になり、思春期の自我を表象するのにちょうどいいものだっただけであり、同時期に別の年齢を生きている人間全てをごっちゃにして「10年代は」というのも、程度問題だなあと思う。

なので、未だに「オウム事件エヴァンゲリオンを結びつける」人がいたら、あの当時の“旬”のようなものであり、またオウム事件を、仮にその引き受けると言っている人が平成世代だったとしても、余程慎重にしなければ火傷する代物であると強調したい。そうじゃなくても一時期の「少年犯罪の恐ろしさ」という虚構にかこつけた、平成世代という若者への目線は今思えばひどいものばかりだったので*14

私が「平成語り」に納得がいかない理由

最後に私が勝手にムカついている「平成問題」、つまり平成生まれを勝手に巻き込んでああだこうだと論じる問題は、多分社会の中に原因があるのではなくて、単純に「平成が短すぎた」事の方に原因があると思う。裏返しに言うと「昭和が長すぎた」のである。

昭和というのはちょうどいい長さである。64年間というのは、多少ずれるにせよ一人の人生と合っている。昭和生まれが昭和全てを語れる余地があるし、大多数の昭和生まれの人間はまだ生きている。これが「昭和」の強みである*15。無論、昭和63年とかぎりぎり昭和生まれはこっそりと「平成」として生きているかもしれないし、それでなくても主観的に昭和後期は平成と連続的に生きていると思うが、それはむしろ自然なことだろう。そこは先程「バブル的」なものについて述べた時に軽く触れたが、「必ずしも具体的な年号や年数とは一致しないもの」だという世代論自体が原理的に抱える限界だろうから。

そして、「平成が短すぎた」というのは、31年という人生半分ないしは1/3の時間だからである。たった31年のうち20年は子供か大学生まででしかなく、社会人になって10年も経ないまま「平成」を負わされる人間。これのどこに理不尽さが無いというのだ?私も昭和生まれが「しでかした」ことについて一家言無いわけではないが、余程慎重にしなければ昭和生まれの人にとって失礼だと思っている。なのに昭和生まれの方はやれ「エヴァンゲリオンガー」だの「オウム事件ガー」だの「小泉現象ガー」だの言いたい放題で、負のレッテルを覆いかぶせてくるのである。まあ自身が昭和生まれで、知識人ならそういうマウンティングを取り放題だろうというのは予想がつく。当の平成生まれはひよっこで、話せるだけの立場にいなかったからである。でもそれを「平成3年生まれ」の人がしたらおしまいだ、と落胆せずにはいられなかった。私も大学で教養として「平成史」を学んだつもりだが、それは「昭和生まれが作った」ものですよと言いたい。

そしてこの「平成生まれが平成を作り上げる前に、平成が終わってしまった」ことに一番フラストレーションを私は感じている。昭和のように十分時間的余裕があれば、平成世代の責任だの平成的な事だのに対して議論できると思うが、平成前半はほぼ全て昭和の遺産の中での延長線であり、後半も十分自立できるほどの余裕はなかった。無論「平成史」なるものをまとめてもいいが、「平成を語る際の問題点」や昭和史との違いを、深く自覚して欲しい。ただ辛うじてきゃりーぱみゅぱみゅや米津玄師、能年玲奈などが「平成生まれとして、平成を表象する」ことをやってのけたので希望が全く無いわけではない。アニメや漫画は残念ながら「昭和のお下がり」が多いかもしれないが、これも多少は平成に入れていいだろう。というかそれくらいはさせてください。

単純な話 「平成を『勝手に』悪く言うな」

以上、長くなったが、これが私の「平成を『勝手』に悪く言うんじゃねえよ」である。無論平成の世にあっても「辛く厳しい家庭」に育った方やスポーツ等別の世界で「こういう平成を生きた」方たちを否定はしない。ただ、私は「平成をそれなりに楽しく生きてたところまで否定しないで」と言いたい。

まさか平成生まれからネガティブな平成を差し出されるとは思わなかったが、ある意味平成生まれ自身が喋らないのも悪いと思い、今回書いた。件の方に悪気は無かったかもしれないが、ここに一つの「平成史」を残しておく。何事もであるが、当事者がまだ大勢いる間は、結論は慎重にして欲しい。

追記

2018年7月9日

金村詩恩さんからこっぴどく叱られたので、より安全な記述のために当該箇所を打ち消し。あくまでもこの記事は「平成をどう語るか」その前提条件について、「オウム事件」と「小泉政権」についての私の理解をダラダラ書いたものです。

 

*1:なるべく「当時の」見方が大事だと思うので、投票日当日の選挙報道を出来れば見ていただきたい。

*2:元ネタは「長い19世紀」と「短い20世紀」という歴史学の概念。歴史区分として、19世紀や20世紀を実際の100年間とずらして考える事で、資本主義の勃興や帝国主義戦争、世界システムなどを統一的に理解できるとして提唱されている。以下、私の「歴史分析」もこれのパロディ元として使いながら行う。

*3:より社会学的に捉えるならば大澤真幸が提唱した「虚構の時代」も悪くはないと思うが、別にここで「高度消費社会」を論じるわけでもないし、ややこしくなるので使わない。

*4:音楽ではいわゆるavex系の安室奈美恵やglobeがオリコンを席巻しており、その空気は80年代後半からのクラブミュージックと無縁ではないだろう。

*5:ちなみに87年は「急増するジャパゆきさん」に対してフィリピンとの間で対策が持たれた年である。どれだけ日本人が金余りを起こしていたか分かると思う。

*6:私も「平成初期」については記憶がないので、代わりに佐々木俊尚さんを引用。ていうか、このツイート先にすら“オウム事件バブル崩壊のせい”という偽史を観ている奴がいてヤバイ。「1995年当時バブルは崩壊してましたが、この前年にはジュリアナブームもあり、空気感としてはバブルは続いてたんですよ。終わった感になったのは1997年の金融危機あたりから。オウムの時代は宮台さんの言った「終わりなき日常」です。」。

*7:この分野で最も理論的に解説したものとしては、『オウム真理教の精神史―ロマン主義全体主義原理主義』(大田俊寛)。

*8:近衛文麿五摂家の一つ近衛家の出身の貴族で、貴族院議員として活躍し、貴族院議長となった。開明的で若い貴族として国民的な人気も高く、政党政治の行き詰まった後の日本の天皇制を支える政治家として期待されていた。「世界史の窓」より。

*9:ただ彼も「サッカー少年」だったらしいので、リアルに感じている平成は中田英寿とかのが近いのではと邪推している。

*10:但し、中森明夫が活動を始めたのが1982年だというので「文学評論としてのオタク的なものの分析」というのは、それ自体独立してあっただろうことは付け加えておく。いわゆる社会現象としてのアニメ分析は宮崎勤事件以降だと思っているというだけなので、間違っていたら私の責任です。

*11:よりベタに反論するなら「趣味として“評論”を書く人間と書かれた対象とその対象を消費する人間と評論を政治的に利用する人間はそれぞれ別であり、互いに必ずしも対話が出来ているとは言えないだろう事から生じる不毛な議論」である。エヴァンゲリオンの場合は、確かに「精神世界的」であり、他のアニメと一線を画する面があるが、それで「エヴァ語り」をする人が、「精神的にイレギュラー」な他の事件の当事者と同類かというとそんな単純な事は言えない。無論評論家はそんな事百も承知なので余程危機感を持たない人で無い限り、消費者に責任はないように書くのであるが、その“評論”をいわゆるオタク批判・批評に安易に転用する人がいるのもまた事実である。

*12:アニメや漫画の評論全てがそうとは言わないが、とかくテレビや新聞での「アニメ・マンガ」理解が何周も遅れているので、あえて「アニメ・マンガの評論批判」をしておく。純粋に楽しむ下地があって、そのあと評論が生まれるのが普通だからである。

*13:余談だが私が先に「哲学」にかぶれたのは涼宮ハルヒシリーズである。

*14:仮に平成世代を表象するとしたら、消費の動向から分析した地元志向の「マイルドヤンキー」というのがあるが、これはこれで時と場合によると思う。またあまりにも「若者」自身から反発を招くと気づいたからなのか、最近は殊更若者を不気味に扱うタイプの評論は減った気がする。

*15:流石に「三丁目の夕日」現象には団塊世代的な色合いが濃すぎて反発も大きかったが、「どことなく自由だった」感は団塊世代以外の昭和の人間と話しても受けるので、「昭和的人間」と言えるものも絶対無いわけではないかもしれない。

RADWIMPS「HINOMARU」事件 続き

前回、「HINOMARU」の歌詞とその背景にある日本の言論空間の問題を書いたが、「HINOMARU」だけ取り出して叩くのも卑怯だと思ったので、いくつかRADWIMPSの足跡に即して、RADWIMPS直接を叩くというのではなく、RADWIMPSが書いた曲を踏まえて、再び「ナショナリズム」について考えてみたいと思う。

hitookmysou.hatenablog.com

問題は「RADWIMPS」そのものよりは、「ナショナリズムとの距離感」

再度確認するが、私は愛国心や愛国ソングそのものを否定し切るのは難しいと思う。その事は前回触れたので、読んでいただきたい。

事件後、軍歌研究者や左翼は「歌詞に具体性、統一性がない」「戦争責任を回避している」と技術的、倫理的問題を問うていたが、私もこれに同意する。

gendai.ismedia.jp

 またRADWIMPS側からは炎上騒動に対して「謝罪」の意思が表明されたが、しかしながらお決まりの「傷ついた人がいたならば」という慣用句的表現で、向き合わなければならない瞬間に逃げの言葉を使った事で、単なるタブー問題として処理されてしまった感があり、残念であった。

kai-you.net

Twitter上では一連の流れで、右翼は勿論「日本を大事にして何が悪い」という反応を示していたが、ファンと思われる方が特段日本の右翼的じゃない人も含めて、曲を支持しているのは、単純にこの歌が日本の音楽の中のどういう流れで生まれたのか、について考えずに、単純に新奇的だったり曲調が良かったり、いわゆるぷちナショナリズム的な感覚と共鳴したからだと思う。それくらいには「軽い歌」ではある。

ただ、どうにも論争が「愛国心」そのものを巡る対立になりそうで、左翼=個人主義VS右翼=日本主義となり、結果的に「ナショナリズム」そのものを否定しきれない左翼が負けて、右翼が薄く広く同意を得るといういつもの顛末になりそうなので、ここで一応左翼だと自分を置いて、「健全なナショナリズム」があるかどうかそれなりに考えてみたいと思う。

RADWIMPS」が持つメンタリティは、日本人と離れていない

まず、RADWIMPSの足跡だが、彼らの中にある「ナショナリズム」はおそらく一般人とは大きく乖離していないだろう事は、「HINOMARU」でさえそうだし、過去の曲からも言えると思う*1

今回教わった中で、RADWIMPS=味噌汁’sということがあったが、その味噌汁’sの楽曲に「にっぽんぽん」があった。確かにベタに受け止め過ぎるのも危ういとは思うが、9割は安全だし、むしろいい曲だろう。食やコミュニケーションの文化性、そこから生じる「われわれ性」まで否定しきったら、おそらく人間集団として意味を無くす。誰といつ歌うかが問題となることはあっても、曲の中で表現されている日本人は標準的だし攻撃性もない。

www.youtube.com

故にであろうが、その延長線上に右翼的だけど軽く書いてしまった「HINOMARU」であり、「右でも左でもない」発言だったのかなと思う。しかしながら一部右翼もそうだが、日の丸や祖先崇拝についてあまりにも軽く考えすぎている。自然なことと自覚せずにいることとは、表現者の場合は責任において違いがある。自覚して向き合うのが表現者なのだから、多少なりともそれと向き合って欲しかった。

では、今回は単純に「右翼叩き」だけをすればいいのであろうか。それでは当の右翼や右翼の言う「ナショナリズム」に薄く広く同意する人たちから「言論弾圧」「表現の自由の侵害」「自然な感情の抑圧」だと言われてしまい、現にイデオロギーを超えて抱えている「ナショナリズム」については、右翼だけに持っていかれて、左翼も多くは持っている「ナショナリズム」が自己否定されてしまう。

左翼は、政府の打倒か「民主主義の徹底」を通して、現状とは別の社会を実現せねば論理的な一貫性はないのであり、それが実現するまでは「ナショナリズム」を負っていると深く自覚したほうがいい。

マニフェスト」に見る奇形的政治観 「HINOMARU」に至る前史としての彼らの認識能力

今回、RADWIMPSについて私も軽く考えすぎていたが、彼らの曲・MVには「マニフェスト」というのもある。これも当人らから見たら「右でも左でもない」のだろうし、左翼的だけと言い切れるかは分からないが、出てくるのが「ゲバ棒とヘルメット」というTHE・学生運動五星紅旗・人民服のパロディなので、少なからず何らかの左翼に対する印象を持っているのだろう。

www.youtube.comただ、正直このMVはおかしい。HINOMARUは「主体性なきナショナリズム」という点で愛国ソングとして失当だったし、細かい表現の過ちはあるが、スルーしようと思えば出来る。しかしながら、「マニフェスト」に出てくる構図は「日本での左翼」と「中国共産党中共)」をごっちゃにして描いており、RADWIMPSの現状認識は少なくとも一貫性はなく、パッチワーク的であると確信出来た。

以下細かく分析するが、まず周りをヘルメットを被った群衆(日本での左翼運動家のスタイル)が覆っている。何らかの抗議ないしは支持の声として集まったのだろう。

ではなぜRADWIMPSがなぜ人民服を着ているのか。人民服は体制的なものであるから、中共と一体的であると言えるが、歌自体は終始一貫「脱政治的・反政治的」な政治メッセージの歌である。体制礼賛では全くないし、それを揶揄する表現もない。ここで違和感覚える。その横に警察的な人達がいるので、RADWIMPSを守っているようにも見える。実際曲の中盤以降、ヘルメットを被った群衆がなだれ込む。そしてその人達はRADWIMPSと揉みくちゃになるが、警察的な人達により排除される。では、「群衆 VS RADWIMPSと警察」なのか。だが歌詞全体は「俺と愛する人が大事、争いをやめよう」という極度に抽象的なものである。MVの映像と合わない。

そもそもであるが、ゲバ棒を持ちヘルメットをかぶった人達と人民服を着た人達は出会う機会があったのであろうか。少なくとも日本の学生運動の歴史の中で中国政治に関与する目的で組織的に大陸へ渡った事例を寡聞にして知らない。また中国人民の抵抗運動、天安門事件などでそのようなスタイルが発生した事があったということならそういうニュアンスとして理解できるが、ではなぜ日本人が中国政治を揶揄しているのか。後ろには日本の国会議事堂がある。天安門広場を借りるのは確かにハードルが高いので現地でやれとも言わないが、中国政治を揶揄したいなら歌詞も「総理大臣」ではなく「国家主席」のがいいだろう。日本政治を揶揄したいなら「人民服と中国国旗」ではなく素直に「特高警察と日の丸」のがいいと思う。RADWIMPSの服装も国民服にしておけば「当局の目を気にしつつも反政府の立場として歌っている」と言えなくもない。だが、その場合歌詞が「どっちもどっち、俺は愛に生きる」とだけしか聞こえないので、逆にMVの過激さが浮く。

つまり、私としては1.設定がちぐはぐ、2.構図を整理して理解しようとしても歌詞とMVが不釣合い、という点で消化不良である。

正直、これなら「HINOMARU」のが陳腐ではあるがよくある繰り返されたテンプレとしては理解出来るのでまだ作品全体としてはマシである。パッチワークがネタとして受ける日本社会というのは、大塚英志氏がむかし酒鬼薔薇聖斗事件やオウム事件で批評していたが、ここまでテキトーなものがいわゆるメジャーから出るのは末期だと思う。グーグル画像検索したほうがまだ客観的な気もするし、政治的モチーフを適当にやり続けると「ナチスの制服をMVで使う」ような轍を踏むと思う。

左翼は、「RADWIMPS叩き」もいいが、「暴力批判」はどこまで真剣に?

ここまでだいぶRADWIMPSバッシングとなってしまったが、RADWIMPS叩きに加わった左翼側の問題として、「どこまで左翼は暴力を否定できるか」という事を問う意味で、「ジェニファー山田さん」を取り上げたい。

この歌の歌詞から漂うのは「暴力主義」である。左翼ソングのパロディとも言えるが、パロディ元があるという意味では、もしこれに左翼が反感を覚えないならば片足を突っ込んでいると思う*2

そこで左翼が今回反発を覚えたという「暴力」についてだが、歴史用語として暴力革命*3という概念があり、それを根拠付けるマルクス主義は日本の戦後のある時期において一世を風靡した。文化人の中には早くから暴力主義や革命思想から足を洗った者もいるが*4、少なくとも日本社会党は文化人の拠り所であったし、日本社会党自体は革命思想、つまり議会主義からの脱皮を想定していた。全ての文化人とは言わないが、1960年代当時全共闘の運動を支持していたのは、議会の外で活動する意味を考えて、時には議会を占拠するという考えがあったからであろう。でなければ、現在再び政党政治と別のものとしての路上運動を取り上げる意味が分からない*5。知識人の中には「路上は非暴力主義の場としてである」と定義している方もいるが*6、ヨーロッパやアメリカなど路上運動が日本より多い国では、度々暴力が露わになる。また運動家の中には否定される方が多いと思うが、例えば沖縄の辺野古前での運動には、避けがたい暴力と暴力のぶつかり合いがあり、それでもって何とか抵抗運動が維持されている側面もある。

私も暴力/非暴力、暴力の根源について悩む事はあるが、左翼は議会活動での限界や逆に統治機構としての議会に反感があるからこそ、そうした路上運動に参加するのだろう。全く否定してしまってはパワーが無くなると思うし、運動当事者として悩んでいる方達を無視してしまうと思う。

そして、それらを実際に路上で繰り返してきたのが左翼である。実際いくつかの歌は「フォークソング」として娯楽化した点もあるが、路上運動の一体感を出すためである。それを歌うことは「政府と対峙する」者として、半ば戦争に参加する事と同じであった。前回の記事の中でパレスチナの「愛国ソング」に触れたが、抵抗運動というのは全く何者の力を借りない事ではない。政府と対峙するには、暴れる力もあると認めなければならない。

それを踏まえた上で、「ジェニファー山田さん」という歌を見ると、血一色とまでは言わないが、そこには「爆弾」の二文字がある。具体的な事例まで考えて書いたとも思わないが、過去には「東アジア反日武装戦線」という組織が日本の左翼運動の中にはあり、三菱重工爆破事件など数多くの暴力事件を引き起こした。無論、ここまでの直接行動を容認した左翼は当時ですら少数派であるが、マルクス主義の中から生まれたという点については、自覚的に反省しながら取り扱わなければならないと思う。現在でもマルクス主義的なものは、「資本論の再評価」という形で続いており、これに代わる何らかの日本なりの理論的支柱は見つかっていないのだから、理論家とて常識として知っておくべき事実だろう。

HINOMARU」は確かに分かりやすい右翼を介した愛国ソングである。では、左翼はどんな歌を残してきたか。全てを引き受けろとも言わないが、「破壊衝動」というのは左翼も伴うことのあるものであり、そここそ保守側が左翼を否定的に評価する点ではないか。もしこれに全く反論する言葉を持っていないならば、「私は保守だけど、太平洋戦争批判だけはします」とだけ言えばいいのだ。保守だけど太平洋戦争批判をする、これ自体大変だとは思うが、少なくともマルクス主義とは絶対的に距離を取りたいならばそうするしかないだろう。またはナショナリティが全く違う人達からの告発というのを想定するしかないと思う。マルクス主義を借りつつも、過去を切り捨てて「日本の左翼」が軽くなるのを私は容認出来ない。RADWIMPSを「歴史の欠如」という意味で批判するなら当然、左翼も何らかの歴史を背負うか、マルクス主義の歴史を負わない何かを提示すべきである。

「右でも左でもない」ものとしての可能性 軽いことを自覚し突き詰める事を肯定したい

先に「にっぽんぽん」について触れたが、この歌は非常に「軽い」歌だと思う。歴史を前景化させることなく、日常にある食や文化を歌った責任を負わない歌である。そしてあえて若者がいま「ナショナリズム」を提示しなければならないならば、私も「日常」しかないと思う。実際「右でも左でもない」という彼の心情は分からなくもない。右翼は天皇との近さを争い経済的利益を損なうと思えば「反日」をラベリングし、時に政府の合法的暴力以上に暴力を伴う事があるし、左翼はある種の宿命だが政府を倒そうとすればするほど血を見る可能性を高めるし、議会制民主主義の可能性をどこまで信じているか、少なくともマルクス主義からは出てこない。その点で右翼も左翼も何らかの意味で歴史や倫理を背負っており、日常とは離れざるを得ないのである。そういう先鋭化・原理主義者を嫌って、日常を確かめたり自然なものを愛でるのは、本質主義に陥る可能性を秘めながらも、極めて否定し難い「意味もなく懐かしくなる」ものだろう。彼らの軽さは、日常にこそ向けるべきであり、国の歴史に求めるものではないのだ。

私は、右翼が徹底的に肯定するナショナリズムを全否定することは、ナショナリズムの欲望自体が広く薄く存在する限りは出来ないと思う。ただ、前回の記事で注意したように、そのナショナリズムが不適切に喚起され向けられていくものがあるとしたら、断固拒否したい。もう少し地に足の着いたナショナリズムがあっていいはずだ。

右翼/左翼から降りてみたとて、保守とリベラルというある程度の思想的対立は残る。ただ保守/リベラルという二分法もこれからの時代どこまで通用するか分からない。私も多くの点でリベラルだとは思いつつも、天皇制や国民国家の幻想について何も自身で払拭出来ていない点において保守的だと思わざるを得ない。幾人かの知識人は「リベラル保守」というのを押し出しているが、心情的には理解できるし支持していいと思うが、理論的に詰められるのか分からない点もあり、私は逡巡している。

今後も「右翼も左翼も肌感覚と違う」という空気を感じ取った歴史を背負わない若者の中から、「右でも左でもない」歌が出てくるとしたら、知識人の製造物責任であると思う。私も思想に被れた一人として、責任を負うとまでは言えないが、もどかしさを感じる。

*1:HINOMARU」がそこまで日本人のメンタリティと乖離していないことは、毎年8月の「反戦ドラマ」や日々の報道番組での「『日本人』を主語にした報道」を見れば端的に分かる。そういう空気の積み重ねがおそらくぷちナショナリズムを支えている。

*2:私は半世紀以上前の人間ではないので歴史としてしか知らないが、例えば頭脳警察の「赤軍兵士の詩」というのがある。ググれば見つかるので興味があればそちらで。

*3:議会制民主主義を否定して、前衛党(日本共産党)が代わりにプロレタリアート独裁を果たして、政治を善導するという一連の流れのこと。暴力を用いねばならないというのは、ソ連の成立史に依っているのであり、日本共産党としては武力を用いない「平和革命」というのを主導するという理解もあるが、日本共産党自身「日本青年民主同盟(略称:民青)」という実力部隊があり、民主集中制=党内独裁を敷いている以上は、体質的に現在でも否定もできないと考える。

*4:代表的、そして最前線で実践し続けたほぼ唯一の人物としては吉本隆明であり、彼の徹底的な「大衆肯定」は「右でも左でもない」ともある意味リンクする。

*5:無論「路上運動という点だけでもって全共闘の全てと一致させるのはおかしい」という反論もあり得ようが、であるならば1960年代のそれが参照され続け、少なくとも否定を積極的にしないのはおかしい。

*6:小熊英二は「社会を変えるには」の中で、対話性としてのデモを取り上げるが、デモ自体は身体性であり路上の占拠にある。実際「警察からの不当な弾圧」への抵抗は起きている。抵抗は物理的身体を抱えている以上は暴力を伴わざるを得ない。

RADWIMPSさん、あなたも「逃げます」か?

アニメ映画「君の名は。」の主題歌を担当したことで、テレビメディアでも浸透した音楽バンドのRADWIMPSが「HINOMARU」という“愛国ソング”を作ったことで、ネットでバズった。

www.huffingtonpost.jp

正直、RADWIMPS自体への関心は「君の名は。」程度だし、当然RADWIMPSの歴史も全く知らないので、卑怯ではあると思うが、歌詞を眺めて「音楽界も悪い意味で、日本の言論に影響力及ぼしそうだな」と思った。

なので、ここから書くのは私の抱く「思想や言論人としての態度としてどうなの?」であり、RADWIMPSの音楽性や作詞者の人格、ましてやこの歌を好む人を否定するものではない。無論、薄く広くはRADWIMPSへの批判であるが、私がこれをネタに批判したいのは、こういう歌や言説が生まれる土壌のほうである。

 

歌のどこが問題か 愛国ソングが求められる場合と使い方の問題

では、まず客観的に歌詞の意味を摘示する。この歌は、多少古めかしい言葉を使ってこそいるが、すごく分かりやすく「祖先崇拝、祖先との一体感、命を懸けて戦いに行く私、守るべき場所と人」という戦争とその背景にあるナショナリズムないしはパトリオティズムを感じさせるものである。

但し、相変わらずこういうものは「逃げ」が潜んでおり、私はそれが嫌である。何が逃げなのかというと、「祖先とは具体的にどれ」「何とこれから戦うの」「目の前で起きていることなの」という主に3つである。

私がこういう回りくどい言い方をしているのは、戦争そのものを否定し切るのは難しいと考えているからである。例えば、現在進行形でパレスチナイスラエルから入植による被害を受けているし、それへの対抗として“火炎だこ”を打ち上げている。またシリア紛争も当初の政府打倒の不満は少なくとも“ナショナリスト”としての動機であったろうし、現在も抵抗運動をその場で行なっている人たちは政府軍から生命を脅かされると思っているから戦っている。

おそらくほとんどの戦争はそれが起きる前までは、いわゆる主戦派も含めて、本当に戦争が起きて、双方に大量に死者が発生すると思っている人は多くはいないと思う。また非戦気分が大半であり、日常に戦争が侵入する事は断固拒否が真実だと思う。しかしながら、一度戦争状態に入ったならば逃げる人たちが多くいる一方で、祖国を守るために武装し戦う人間もそれなりにいる。故に戦争は長期化するし、戦禍は拡大するのである*1

その場合、戦うと決めた人たちが自らを鼓舞するために“愛国ソング”を用いるのは、至って当然の反応である*2。それが文化の力、歌の力である。そういう意味では、RADWIMPSの歌も愛国ソングであることは自明だし、否定すべくもない。

そして、私が強調しておきたいのは先に挙げた「何を守り」「何と戦い」「それは目の前で起きていることなの」という3点である。私が先に戦地の具体的な例を挙げたのは、どう見ても戦争が起きており、そこで抵抗している人がいるからである。私もゲームで戦争の気分を味わう場合、同時に快楽を感じるが、それはだいたいフィクションであると割り切っていたり、例え実際の戦争を舞台にしていたとしても、“駒と駒同士をぶつけ合うだけ”だと明確に認識しているからである。まさかプレイヤー同士で殺し合うと、そのダメージがリアルに伝達して、現実で何らかの肉体的精神的損害を受けるだなんて思っていない。故に、私はゲームでは、“ナショナリズム”を全開にして快楽を享受するのである。当然、プレイが終われば冷静になって、ゲームはゲームだとその場で気持ちを切り替える。

逆に言うと、もしそれが現実と地続きで、このコンテンツを消費する事は現実政治と気持ちの面では繋がっており、その事により総体的に現実の誰かを傷つける、と思った場合はとりあえず必要性がない限り留保する。

私が問いたいのは、RADWIMPSがどういう事を意図してこの歌を作り、どう皆に消費して貰いたいかである。プロの作品である以上はアマチュア以上に、発表に重きを置いているだろう。そしてその場合は製造物責任も負うはずである。この歌をどういった場合、どういった人に消費して貰いたいか。そこに答えられないならば、「作りたいから作った」以上のものではないと私は感じるし、責任を負えない人たちなのかなと感じる。表現の技巧にまでは踏み込まないが、この歌がもし好きなアニメやゲームの主題歌だったならば、私は殆ど躊躇なく身震いを覚え、自らが鼓舞されていると思うだろう。実際そういうコンテンツを想像できるが、それだけRADWIMPSの力はある。

改めて問いたいのだが、「何を」大事にして、「何と」戦い、それは「まさに今」なのか。少なくともこの3つについて、歌詞から推理できる事には触れておきたい。

「何を」大事にしたいの? 私と日本を繋げる事の危うさ 自覚の困難さ

第一に「何を」大事にしているか。結構重要な点なのだが、抽象的な表現が多いので、具体的な事件や人物などは当てはめづらいと思う。しかし一般的に歌というのは皆に共感して貰うためには表現を曖昧にするものである。例えば、「大切な人との別れ」を歌ったものは多いが、作者の実体験や思いと消費者のそれとは本来は全く別のものである。言葉は一般的に抽象的で相互理解を図る為に使われるわけだが、他人の気持ちにも届くというのはそういった抽象性がうまく機能した場合である。この事自体は否定するべき事では全くない。但し、文脈を共有していない者同士で、言葉を交わした場合、表面上では意識を共有化出来たと思うかもしれないが、文脈としてマジョリティとマイノリティで明らかに落差があれば、それはマジョリティとマイノリティの持っている分断線を強化する方向になり、同じ言葉なのに架け橋に全くならない*3

例えば、典型的だが「古(いにしえ)」「この御国の御霊」。これは祖先崇拝のテンプレのようなものであるが、人間として当然持つであろう父母、祖父母、それを永遠に遡っていくと何故か日本という総体になるという発想である。何故かというのは、当然遡り続ければ、日本人はおそらく南方系や北方系、半島・大陸から渡ってきたものの総体なので、現在の日本列島という地域に収まらないからである。その事は天皇陛下も自覚しておられ、「韓国とゆかりを感じる」 の発言をしておられる*4。また現在はより多様性が目に見えて明らかであるが、いわゆる白人や黒人、ヒスパニック系の人たちも他国からやってきて、我が国に定住している*5。つまりは、「現在の血筋をたどると、日本という総体にたどり着く」などというのは物理的には間違いだし、多様性を否定するものであるのは明確である。別にその事自体はハッキリ歌われていれば、それなりに筋は通るのだが、「古くから」「血筋を辿れば」というのを愛国ソングのテンプレとして利用しており、守るべき対象としての「日本」を考え抜いた末に我が事化しているとは思えないのである。確かに、歌詞から感じるイメージは、私を含めて聞いた人にとっては、身震いを覚えるほどにリアルな感覚かもしれないが、「家族と日本を直結させてしまう」という文化的に慣れさせられたものに依存しており、「では日本は実際は何なのか」に直接的には答えていない。故に歌詞にも「意味もなく懐かしくなり」とあると推察される。

実態として「家族的連帯と日本という総体の繋がり」におそらく当てはまるのは、「天皇陛下」というこれまた多くを想像上に頼った存在であるが、私はその思想そのものを全否定するのも、現に天皇陛下を戴いている以上は簡単ではないと思っている。なので、祖先崇拝とナショナリズムという関係があるならば何らかの形で明確にすべきだし、そうではないならば思想的には異端であるので提示すべきだし、全く考えていないならば無知なので多少は恥じて欲しい。消費する側も愛国消費というのは、あまりにも負うべきものが大きい事を自覚し、正統性もなく作詞者も責任を負いきれないであろう歌にナショナリズムを寄せるよりは、素直に「君が代」という由緒ある国歌があるので、そちらを用いるのが良いと思う*6

「何と戦うの?」 暗黙の了解としての「敵」とそれを口に出さない=隠蔽する事による責任回避

第二に、「何と」戦うかであるが、現状のメディア環境、政治を考えれば十中八九、北朝鮮は入ると思う。人によっては韓国や中国も入れるだろうことは、否定しきれない。では、その事は歌詞にあるかと言えば、無い。これは3つ目の必要性の観点とも関連するが、主観的には想定しているものがあるにも関わらず、それを言葉としては入れない。各自自由に想像して下さい、と暗黙的にするのである。非常にずるいのである。第一の「自然なナショナリズム」以上にずるい態度である。確かに祖先崇拝は自然である。よほど論理的に詰めなければ矛盾点も見えづらいだろう。だがこの「何と」の部分は意図的に隠している。なぜならば、もしそれを明らかにすれば対象へのヘイトであり、同じことを立場のある人が言えば、外交問題になりかねないからである。でも、戦争を歌うならばそれは承知の上でなければならない。少なくとも我が国を懸けているということは、私的なことではあるまい。知っていながら隠している。こういう疑心暗鬼にも似た事を歌うのは非常に危うい。今の日本には、自身や家族が、現にあるいは過去に「朝鮮籍」「韓国籍」であったという朝鮮半島にルーツを持ついわゆる在日の方がいるし、例え韓国籍で、韓国にアイデンティティがあるとしても、複雑な気持ちは変わらない*7。それは明治期に日本が占領し、その後偶然に日本が崩壊したので、空白地帯が出来てしまい、分断されてしまった朝鮮半島の1945年以降の歴史が物語っている。日本は9割の方が知らないと思うが、韓国/北朝鮮では積極的かは別にしても、知らずに通せない常識である。

であるからこそ、北朝鮮の脅威は減っていないにも関わらず、朝鮮半島有事を何度も現実の危機として招来する事を韓国の方たちも躊躇してきたのだし、現に反対している。別にRADWIMPSという近頃の若者にそこまでの歴史教育を求めるのも酷だが、日常的に北朝鮮の脅威を感じているとしたら、「韓国の人も嫌なんだろうなあ」くらいは感じて欲しいし、感じなければ私は抗議したい。

また仮に、これが韓国や中国ならば、韓国に関しては杞憂に過ぎないし、中国も一触即発という程度には戦争の危機がないと私は感じるので、反論したい。それが第三の「必要性」である。

「眼の前に迫ったものですか」? 戦争を選択肢としてみる事の軽さ、あるいは現実政治と認識のギャップ

まず、韓国は現実に危機を感じているのは北朝鮮である。ミサイルもいくつもソウルに向けられており、最近も延坪島砲撃事件で一触即発の事態に陥った。日本とは確かに竹島問題があるが、実効支配しているので戦争を仕掛ける理由もない。あるとすれば日本側から戦争を仕掛ける事だが、本気だとしたら短気に過ぎると思う。まずは国際司法裁判所に諮る事が先決だろう。

中国は、こちらのが北朝鮮の次にリアルだが、確かに外交上何度も日本側と口論を交えている。尖閣諸島中国漁船衝突事件東シナ海ガス田問題の2つは最近議題に上がったものだが、常識的に考えて、中国は大国主義的な振る舞いをして、南シナ海進出、果ては太平洋進出できる能力を着実に蓄えている。この事はテレビメディアも含めて一般に流布しているし、右翼の専売特許とも思わない。

但し、こちらも日本は基本的に受け身である。つまり日本が戦略的に東シナ海や東南アジア諸国の影響力を競うというよりかは、少しずつ中国が大国主義的になってきたので、脅威に感じているという段階である。アメリカは、明確に世界戦略を持っている国であり、かつ自由に軍隊を配置できる能力を持っているが、日本は客観的に言って、意図を持っている人がいるとしてもそれは経済的にしか実現できず、軍事的には連携が限界であって、日本が主導的な役割を果たすのは9割ない。それは良くも悪くもアメリカの影響力が大きいし、そこに日本は自覚的に頼っているからである。

もし、日本が中国と直接的にやり合おうとしているならば、日本を引っ張ろうとしているその人を止めに入りたい。そのような客観的状況にないからと。

北朝鮮もそうだが、中国相手にもし戦争の機運を煽っていくべき時だと考えている人がいるならば、私はタイミングとして拙速過ぎて、右翼的だと断じざるを得ない。戦争は偶発的面もあり、少し前は北朝鮮がミサイル暴発もあるのでは、とまことしやかに囁かれていたので、焦る気持ちも分からなくはないが、今は静観すべき時である。音楽のリリースに国際情勢が絡む事はほぼないが、音楽業界の事情だけで出すには、あまりにもタイミングが悪い。中国に関しては長期的話であり、北朝鮮も濃いグレーから薄いグレー程度には、危機は去ったからである。無論危機がないとは言わないが、今まさにとも思えない。なのでこのタイミングで歌を出して戦争を訴える必要性も感じない。

そもそも私は、危機を迎えてから戦争は煽るべきと思っている。あくまでも言葉上でしかないかもしれないが、戦争が起きたらそれは既に対話の段階を超えており、やらなきゃやられるという意味を戦争は持っている。その状態になってまで非戦の立場を取るかはその人次第であり私は自らの身体を張って止めるのも一つの立場ではあると思うが、戦争に主体的に参加する側も状況によっては正当性が高いという例はあると思う。だからこそ先に具体的な戦争状態の例を挙げた。

もし、本気でRADWIMPSが戦争を望んでいないならば、明らかに外交を邪魔しているし、望んでいるにしてもその覚悟を示すだけの形跡が歌詞にはない。とりあえず気分だけ戦争参加への機運を高めただけか、高めておいて曲が終わったあとのカタルシス効果を狙っているという商品としての理屈(悪く言えばウケ狙い)かのどちらかと思ってしまう。RADWIMPSが誠実に戦争を考えているならば、まさか「気持ちだけ高めておく」という事は無いと思うが、果たしてどうだろうか。

RADWIMPSもまた「日本の申し子」 日本の責任の取れない態度

長くなったが私の言いたいことは、「曖昧なまま気持ちだけ動かされて、それが結果責任を負えないレベルの事と何らかの形で繋がっている、とかいう責任もへったくれもないのは大嫌いだ」ということである。この歌の発表のタイミングは、サッカー日本代表の試合と近いので、素直に考えれば、椎名林檎のNIPPONと同じレベルの愛国ソングであると見なすのが自然である。

しかしながら、そういう場合でも、サッカーと戦争を同一線上に見ており、その欲望は実際には「戦争をイメージした国歌が欲しい」というのとかなり一致している。

よく日本は、世界一平和な国歌を持っているとネットで自称する人たちがいるが、かなり的を射ていると思う。他国を侵略する歌詞ではないし、戦争をイメージしたフレーズが全く無い*8

おそらくこれが本質的なのだが、日本は戦争を主体的にするつもりがおそらく無いのである。君が代を眺めてみても、祖先崇拝ないしは天皇崇拝までは分かるが、戦争を率いる感じはない。でも、戦争自体は過去にあった。そして、日本はそれを受動的に遂行したと言われている。無論実際には指導者はいて命令書もあるが、昭和天皇本人ですら、「自分の意志ではない」という旨を述べており、その気持ちは極東軍事裁判にかけられた当時の政治家たちも同じだったという*9*10。客観的にはどこまで真実かは別にしても、そういう気持ちを持っているのが日本人なのであろう。

その気持ちと一体である君が代は相応しいとも言えるが、その主体性を隠すのを後から後から愛国ソングとして模倣しているとしたら、かなりまずいと思う。戦争を煽って欲しくはないが、主体性を喪失しているとしたらそっちの方がもっとまずい。私が一番問いたいのは、この主体性の喪失である。そしてRADWIMPSの歌も漏れなくその類型の一つだとほぼ確信している*11

いつか、まともな愛国ソングを聞いてみたいものだなあと私は切に願う。ここで「そこまで主体性を気にするなら書けばいいじゃん」と言われたら、私はその時間をゲームプレイの方に費やしたいので断る。なぜRADWIMPSがゲームやアニメ主題歌として作って発表しなかったのか。誠に残念である。ゲームやアニメなら臆面もなく、主体を発揮して書けるはずだと私なら思うのだが。

 

追記(2018年6月12日):「HINOMARU」以外にも、「にっぽんぽん」、「マニフェスト」、「ジェニファー山田さん」があることを教わったので、それも含めて記事を書きました。

hitookmysou.hatenablog.com

*1:実際は、「逃げたくても逃げられず、その場に留まる」人が大半であるが、今回は捨象する。

*2:例えば、フランス革命では「サ・イラ」という革命歌が歌われたという。。またパレスチナでは「ガザの人々の心情を歌ったものだが、同時にガザでの虐殺を黙認している国際社会へのメッセージ」(引用元そのまま)としての“反戦歌”であると同時に愛国的な歌がある。

*3:例えば、「卵焼きが好き」ということで話が盛り上がるとする。甘いか辛いか、出汁はどうするかなど色々広がりうる。でもそこに卵アレルギーの子がいたらどうだろうか。私ならば、卵アレルギーの子がその会話の中にいると分かった時点で、卵焼きの話はやめて話題転換する。それ以外にも方法はあるかもしれないが、少なくともその子を気遣う事はした方がいいはずである。こういった場合に、言葉は本来コミュニケーションを取るためであるはずが、分断を露わにするのである。

*4:天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)にて。

*5:2018年の東京都23区の新成人のうち8人に1人は外国人だという。

*6:君が代自体も必ずしも正統性があるとは言えず、国歌と言えないという立場もあるが、現実問題明治政府が国歌として定着させたし、多くの日本人がそう考えている以上は、国歌であることを疑わない事まで批判するのも難しいのでここでは留保する。

*7:朝鮮籍」は北朝鮮国籍を意味せず、「朝鮮籍」「韓国籍」という分け方自体に歴史的背景や日本政府の責任放棄があったことについては『ルポ 思想としての朝鮮籍』(中村一成)を参照。

*8:リベラル派がしばしば、「君が代」は戦争へと繋がるから嫌だ。と発言する場合があるが、それは戦争利用されたことと「天皇制が戦争動員を含んでいる」というのが主な理屈である。しかしながら、戦争利用は事実だとして天皇制が戦争動員を含んでいるというのはどこまで真実か難しいはずである。なぜならば、封建制度だけが戦争を惹起するのではないことは第二次世界大戦後の自由主義陣営、共産主義国が証明したからである。心配をするなとは言わないが、「国家」をどう御するかはリベラルであろうと難題である。

*9:「実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」『終戦の詔』一部抜粋。

*10:『「空気」の研究』(山本七平)など。

*11:この点、愛国ソングではないが、少なくとも「HINOMARU」よりは何が言いたいかハッキリしていたものとして「ピースとハイライト」がある。ただし、肝心の桑田佳祐自身が責任から逃げてしまったので、残念な結果に終わった。

NHKさん、「週刊こどもニュース」がなぜ良かったのか忘れてませんか

「こどもの日」記念で、NHKが「報道番組の子供向け化」を試験的に行なったらしい。

tver.jp

www.nhk.or.jp

林修先生が出演した方は、「林修先生が出演した」こと以外は特に触れるべき内容はなく、「シュザイダー」なる声優の宮野真守がアテレコして、水木一郎が主題歌を担当した方も、その事以外は特に触れるべき内容がない、通常のNHKの報道番組だった。

どちらも民放やアニメ業界の第一線で活躍する人を起用したという点は共通しているが、決定的にNHKが勘違いしている事があると思う。それは「外と中は必ずしも一致しない」ということである。例えば、ジャニーズ所属アイドルがニュース番組のキャスターとして活動しているとしよう(実際ほぼそうなってるが)。では、ジャニーズファンの多くがニュースそのものへの関心を深め、議論するようになるか。きっかけの1つとしてはあり得ると思うが、結局はその視聴者個人個人がどう考えるかであって、いわゆるメディア用語での「単純接触効果」というものはおよそ期待できない。

いくら、人目を引く努力をしようが、報道も「コンテンツ」である以上は中身次第なのである。例えば、今回北朝鮮や仮想通貨について扱っていたが、そこをどう伝える・関心事として共通化させるか、議題設定効果と呼ぶが、そこがメディアの力量なのであって、有名人を起用して客寄せパンダにしたところで、肝心の演目が結局は今までどおりならば、従来どおりの状況が続くだけである。

もし、そこに気づかずにNHKが今回やらかしたとしたら、プロデューサーは勿論経営陣が何のためにいるか、頭を抱えざるを得ない。こういう大所高所から議論しなければ「みなさまのNHK」とは名ばかりに、勘違いしたおじさんが急に星野源みたいな格好をして職場に現れた、みたいな痛い状況を繰り返すだけだろう。

「メディアの世論形成能力」を考える事自体が危険性のあるものだし、単純に答えが出るものではないが、NHKがかつてのような公共性を考えるならば、私のような20代30代ならば、「週刊こどもニュース」が挙がると思う。今は民放で活躍中の池上彰当時NHK職員が、1990年代に日曜日の朝・夕に番組を持っていたわけだが、これは子供ながらに「世の中のニュースに触れて楽しい」と思えるものだった。そこで「分かりやすい」という以上に重要だったのは、出演していた「子供」との対話があったことだと思う。無論、報道とは言え演出として制作している以上は、どこまで自然なものかという疑問があるが、対話をすることでより説得力を増すというのはあり得ることで、子供が入り込むには、「私がこう考える」という視点を持ち込む為の仕掛けこそが大事だと思う。

そして、今回制作された2つの番組は、その視点が完全に欠落していた。まるで「私達が真実を取ってくるから、それを視聴者は見ればいいだけ」と言わんばかりの姿勢が透けて見える番組だった。確かに、NHKの取材は一定の真実性を持っているのであり、全否定するのもまたおかしな話であるが、人間というのは「外と中」どちらも見ているのである。変に押し付けがましい番組ばかり作るようでは、どれだけ正しいことを言おうが、信頼性が落ちる。そこが、研究者が決められたフォーマットで真実性を担保すればいいだけなのとメディアが「どう社会と対話するか」というコミュニケーションの問題が独立してあることの違いであろう。

私は、取材陣自体の努力を否定はしないが、「演出」に関しては少なくとも報道スタッフにノウハウが決定的に欠落しており、今回悪いところだけで突っ走ったのだと思う。NHKのような巨大組織だと、各現場での意思疎通が過小であり、各現場での反省が共有されない問題はなかなか取り払えないが、そんな事は様々な番組をザッピングする視聴者には関係ない。NHKも委員会でのメディアリテラシーのなさそうな政治家のおじさん・おばさんばかりと相手をせず、NHK番組モニターをより活用して、「みなさまのNHK」を実現して欲しいものである。

 

ここからは脇道に逸れるが、NHKの組織内に「世論の空気が読める」部分が全くないわけではない。例えば、教育番組でもだいぶ「現代化」としての番組改編が進んでいるが、それは直に子供そのものと向き合わなければ意味がないという制作スタッフの意識と「教育現場の試行錯誤」という日本の学校社会の成果だろう。実際、どこまでそれが効果を上げているかは分からないが、その努力は一朝一夕に実るものではないし、少なくともNHK総合が「やらかした」ことと比べれば着実なものだと思う。

ついでに言うと、NHK総合には「LIFE!」というお笑い番組があるが、この中のコントも脚本がしっかりしており、政治ネタも(バラエティなので「報道」ではないが)自然に出して、視聴者のシニカルな笑いを誘う仕掛けが散りばめられている。

もしNHKが試行錯誤をするならば、まずはNHKの歴史の中にそのヒントがないか探した方が早いと思う。

NHKがもし「忖度」していたならば 山口達也レイプ未遂事件と報道の現場

ジャニーズ事務所所属・山口達也TOKIOメンバー)が2018年2月12日に起こしたレイプ未遂事件について*1、各種メディアで取り上げられているが、テレビ番組では特にジャニーズ事務所所属の方たちがコメントをするところにニュースバリューがあるようである。

www.oricon.co.jp

www.huffingtonpost.jp

www.nikkansports.com

www.nikkansports.com

www.sponichi.co.jp

ただ、暗黙の了解・テレビや新聞では扱うことが「稀な事務所と放送局・メディアの力関係」が、報道現場にまで及んでいるとしたら、最悪の事態だと思う*2

ジャニーズ事務所も一般的な良識として、「山口達也のレイプ未遂事件は、山口が悪い」という点では一致しているようで、テレビ番組などでの発言を見る限りは、普通のコメントが出ている。

但し、これは第三者・知人程度ならばということであって、同じ会社の従業員としては落第点だと思う*3。無論従業員がそういう態度を取るのは、経営者がそう仕向けている、少なくとも表沙汰にしたくないという意向を持っているからであって、私もジャニーズ事務所のアイドルだから全てが悪いと言うつもりはない。

ただ、ジャニーズ事務所の先輩・後輩を越えて、被害女性へのフォローや山口達也を今後どう扱えばいいかについて、積極的なコメントがジャニーズ事務所アイドルには求められるのではないだろうか。一般的な大手企業ですら難しいことであるが、内部からの動きも期待したい。

 

そして、私がジャニーズ事務所以上に罪深いと思うのは、NHKである。現在までのところであるが、NHKは事件のあった2月から書類送検される4月までの間に、少なくとも「被害女性の訴え」自体は把握していた可能性が出ている*4

これには、私は財務省福田淳一事務次官セクハラ事件についてのテレビ朝日の対応と似た感覚を持つ。つまり、いちばん大事な被害者保護を優先せず、組織防衛・利害関係者との利害調整が勝ってしまうことである*5

NHKが疑われていることは財務省が行なった「事実関係を把握できないので、司法の判断を待つ」という完全に加害者側に立ったかどうかである

無論、財務省にも財務省なりの論理があったように、NHKも疑惑に対して何らかの反応はすべきだろう。こういう時に黙るのは少なくとも大組織がやることではない。メディアにも「公務員倫理」と同レベルの「メディア倫理」は求められると思う。

また、国会議員の方々も、予算委員会等でNHKへの質問はして欲しい。現状では、メディアを監視する機能をメディア自身が他国のように、第三者機関に委ねる事をしていない以上は*6、国会を通して明らかにするのが最も公正公平と言うしかない*7

野党議員も「山口達也レイプ未遂事件よりも他にやることがある」と言うよりは、伊藤詩織事件やテレビ朝日女性記者セクハラ事件の時と同じように「#Metoo」運動をして欲しい。でなければ、「NHKですら報道がねじ曲がるのが野放しになるのならば、利害関係者は#Metoo出来ないのだな」と最悪のメッセージが社会全体に広がる恐れがある。

全てがデマで、NHKも把握していたのがニュース速報が出た当日だというならマシだが(組織ガバナンスとしては疑われるとはいえ)、「危機管理」を言うなら、犯罪者の恐れがある人物を起用し続けた期間こそ危機に思う。

至って普通のことが、この異常な社会で「被害者保護という常識」が広まる事を祈る。

 

追記

5月2日に行なわれたTOKIOメンバー4人による謝罪会見は、松岡昌宏さんがほぼ満点の回答で被害女性をフォローしていたので、少なくとも「TOKIO」自体の面目は保たれたと思う(会見内容によれば、TOKIOメンバーに対してもまだ弱音を見せて、連帯を取ろうとして「辞表提出」をしているようなので、とてもではないが山口達也は被害女性に会わす顔はなさそうであるが)。

あとは、メディアがいつ被害女性を主語として報道するか、たとえ直接の被害者を引っ張り出さなくても、「レイプ被害者の声」というのは伝えられるので、海外の「#Metoo」をやたら気にする前に、まずは日本国内の被害者をエンパワーメントする報道を行なって欲しい。(2018年5月3日更新)

 

5月6日、ジャニーズ事務所山口達也契約解除の旨のFAXを各社に送り、その中で山口支援と被害者叩きの種になるようなことを自粛するよう報道各社に要請をしたことで、一般企業としてはほぼ満点の回答をしたと思う。メディアが積極的に被害者女性をエンパワーメントする情報提供について特集することは考えづらいが、それでも何も被害者へのフォローがないよりは、これでマシになると思う。改めて、TOKIO松岡昌宏さんのメッセージの意義を感じる。(2018年5月7日更新)

*1:山口達也が会見後に再入院、自宅で1人にしておけず 『朝日新聞』2018年4月29日

*2:近時では中居正広氏による事件の報道

*3:最近は、メディア企業でも自社の関係者の犯罪行為について、プライベートで起きたことでも「報じる」ことは通常となっている。ただ、後述するように社会的メッセージとしての正否については努力不足に思う

*4:山口達也、書類送検後も何食わぬ顔で『Rの法則』出演か?NHKは「ジャニーズ側から事件を聞いたのは25日」

*5:この場合、NHK内部では少なくとも「Rの法則スタッフ」、「NHK経営陣」、「NHKコンプライアンス担当者」の3つが関係すると思われるが、「Rの法則スタッフ」は当日まで知らなかったと今のところは言い訳が立つが、コンプライアンス担当者と経営陣がまさか当日まで知らなかったとは言いづらい。もし当日だとしたらニュース速報までが短すぎるからである。前例として「平成16年7月に発覚した芸能番組プロデューサーによる経理不正事件を契機とする複数の不祥事」があり、その後の改善案の中でも普段からのコンプライアンスが謳われている。ならば、余程通常の組織と違いがなければ、報じた日と把握した日とのラグについて、一定の説明責任が生じるはずである。

*6:欧米では、公費で第三者機関を設置し、政府・メディアから独立した監視を行なっているケースが主流である。日本は、BPOがこれに相当するが、放送事業者が委員の過半数を選ぶ点や利害関係者の多様性が不十分な点がある。

*7:NHK女性記者過労死事件については、事件発覚後から国会で追及がなされている

「放送法改正」についての解説のようなもの

はじめに 

最初に断っていくが、私はメディア研究の専門家でも、ましてや政治の専門家でもない。どちらも関心はあるが、プロフェッショナルでは断じてない。ただ、基礎の基礎を大学で受講し、少しだけ教授と話をしていただけだ。なので、専門の話を深く知りたいなら、他を当たって欲しい。私自身、最近メディア研究フォローしていないので、むしろこのことに関して発信している方がいたら教えてもらいたい方である。駆け足で書いて、プロフェッショナルから見たら「雑」すぎると思うので、こんな記事より早くプロフェッショナルの文章を見たい方である。一応参考書籍を挙げたが、手元にないまま書いているので「放送法」だけサクッと知りたいなら、参考書籍に挙げた山田健太氏の本を読めば済むと思う。

そして1万字書いた割に、「結論はこの程度か」なので、なんとなく読みたいなら最後だけでも良い。大したことは書いていない。

ただ、あまりにも粗雑な話が左派も右派もTwitter界隈で多かったので書く。

あと前提として「安倍政権のイデオロギー性」と「どちらか特定の勢力」に寄って立つ事はないようにする。というか、安倍政権のこの問題での内情が分からないので「安倍政権独自」の分析は出来っこない。中立に書こうとするというのは、あくまで目標で、私自身左派なので右派には厳しいが、それでも私なりの左派批判はする。ただ右派がいつも言うような内容の左派批判はしない。

 

 

 最初に言及したように、素朴過ぎる意見が多いのであまり生産的なものはなかった。というか、元の時事通信のリード文がひどすぎる気がする。「党派性」が出ないわけではないが、それは押さえつけるものでもないし、あとで述べるがネット優位になった以上仕方がないのである。

政治的公平の放送法条文撤廃 党派色強い局可能に - 共同通信

ただ、一つ一つをきちんと見るとそれなりにメディア環境について考えられるので、触れていこうと思う。

左派ってそこまで力ないわけじゃないよ

まず第一に「右派系の番組はあるが、左派の番組はない」という点である。何をもって分けるかは難しいが、左派はそれなりにある。ただ、メディアとして認知されていないのである。

またそれはおそらく放送法の政治的公平性とは直接は関係ない。日本は素晴らしいことに、メディア研究に限らず大学教育が担保されている。世の中には大学教育すら整っていないところもあるので、戦前から続く「教養」というのが少なからず存在しているのは貴重なのである。優れたドキュメンタリー映画人間性を描いた作品が、テレビ報道以外にたくさん存在している。これは右派左派問わないことで素晴らしいことだ*1

ではなぜ認知されないのか。ほとんど唯一の理由は、商業主義である。つまり、視聴率が稼げないのである。フジテレビの「ノンフィクション」は昼間だからマシなほうで、NNNは素晴らしいのだが、日曜深夜という考えられる限り最悪の時間である。TBSの「ザ・フォーカス」もそう。NHKは定期的にドキュメンタリー・報道を通常のプライムタイムに流しているが(NHKスペシャルETV特集BS世界のドキュメンタリーなど)、あまり耳目を集めない。それなりに認知はされているが、あれが数字を取れるとは思えない。あくまでも民放のバラエティを念頭に置いてではあるが、それがこの国の「ドキュメンタリー」の地位なのである*2

また、報道に限っても、それなりに担保はされていると思う。ただ、どう見ても一つあたり最大でも、滅多にないが、30分。通常は1分程度の細切れか、多くて5分程度だろう。これではとてもではないが、分析は浅くなる。ゆえに分かりやすさが求められる。結果として「常識」に適うようになる。報道の安全保障としては無いよりはあった方がいいが、明確な危機(クライシス)が生じた場合、基礎体力が減っていて危険なのは、福島第一原発事故で分かっている人も多いと思う。ホントはもっと多様なクライシスがあるのだが(私自身分かっていないのが多いと思う)、報道が気づく能力を落としていると市民はもっと平均的には下になるだろう。もしこれを「日本は左派がない」というなら、確かにそうだと思う*3

ただ、これは結局は商業主義、視聴率主義、テレビ局でのバラエティ優位が招いているものなので、法律で決まった「政治的公平性」を現場が忖度してるとか単純なものではない。そんな粗雑な社会問題などあったら全部法律で決めればいいことになる。あくまでも主役は現場だし、メディアは特にその側面が大きい。

そこまで政府が管理できるほどじゃないよ

第二に「放送免許やめろ」というものだが、改正案をちゃんと見ていないが、時事通信の記事読む限り、おそらく今回の改正は放送免許が形骸化する、つまり政府の関与が無くなる方向だと思う。というか、そうでなければ「政治的公平性」を変える理由がない。一応安倍政権で起きた「高市早苗大臣による放送法4条発言事件」やそれを援護射撃した「放送法遵守を求める視聴者の会」の運動を見れば分かるように、一時期放送法4条にこだわったのは右派・安倍政権のほうである。そして決め台詞は「放送法に反したら放送免許取り消し」だったはずである。それを今回政治的公平性を考えないようにしようというのだから、少なくとも放送免許などに関わる事由は一つ減る。そもそも、日本では色々な偶然があったと思うが、放送免許取り消しは、いわゆる椿事件を除いては、論争すら起きていない。少なくとも人口に膾炙するレベルでは無いと言っていい。それだけ、日本は社会常識と放送は乖離を起こしていないのであって、昨今を除けば、危機を経験していないのである。コレ自体はいいか悪いか言いづらいが、少なくとも「放送事業者にとっては」いいことだろう。

また、先走ったことを言えば、放送免許自体無くなるだろう。それは、「放送と通信の融合」が進むからである。現状でも、地上波並とまでは言わないが、視聴者が気にしない程度には通信=インターネットのレベルが上がっている。詳しくないが、5Gになると「現実と見紛うレベル」になるらしい。おそらく放送並のラグがゼロの時代も近いのだろう。そしておそらくこれが技術的な意味での最大の原因だ。つまり、放送事業者にだけ特権的な意味がなくなるのである。インターネット事業者は、現状一般的な刑法や経済法以外の特別的な規制はほとんどない。公職選挙法に多少あったが、それも現実的に無くなったはずである。だからこその今回の改正である。一方で、インターネットという殆ど無差別の(勿論一般法、刑法の名誉毀損やプライバシー侵害には服する)世界があり、放送事業者だけ「政治的公平性」とかいう放送事業者自身も殆ど認める「美文・政治的宣言文」を付けているのは、はっきり言って欺瞞である。放送事業者自身これまであまり気にしてこなかったと様々なところで発言しているのに、今回だけ騒いでいたら逆に滑稽である(現に騒いでいるのは、メディアの素人だけのようである)。

なので、第二の憂慮も大したことはないし、問題を認識すら出来ていない。

FOX化?もうしてるじゃん

第三の「FOX化が進む」であるが、まず第一・第二で見てきたように、放送事業者は政治第一で進んできたとはあまり言えない。そして放送法は内容面ではほとんど関係ない。繰り返し言うが、質や社会的認知の問題は商業主義のせいだし、政治的公平性を外す=自由化は、技術的要因が大きい。で、FOX化であるが、確かに今回の日本での改正同様に「政治的公平性」を外したアメリカでは、FOX化が進んだ。つまり、ネトウヨ番組の巨大化である。ただ、これはアメリカの場合も極端に日本と違うわけではない。無論アメリカの方が比較的プライムタイムに政治的トークが多いし、そもそも政治的意識が高いし(高すぎてポリティカル・コレクトネスで揺れているし)、と政治的には異なるところがあるが、基本的に商業主義は同じと言える。つまり、FOX化もFOXがイデオロギー的な動機でもって巨大化したというよりは単純に「儲かる」から巨大化したのである。

日本でもたまに「日本会議が操っている」「正力松太郎がメディア支配を進めた」という論、右派による左派批判でも「中国韓国が支配した」とかあるが、私の認識は、その面も絶対ないとは言わないが、9割は商業主義である。もう少し細かく言えば、経済的合理性を考えて、その次にイデオロギーである。人は結局はパンがなければ生きられないのである。ただ、ナショナリズムとの関係で言えば、資本主義とナショナリズムはある程度親和性があるので、広義の「イデオロギー」までは批判しない。これは右派だけでなく左派もある宿命だと思う。

ここは読み飛ばしても本筋と関係ないが、とは言っても、左派・右派ともにこれに無自覚なせいで今回の粗雑な批判が吹き上がっているが、メディアとナショナリズムの関係は深い。というかほとんど必然である。歴史のお勉強になるが、プロテスタンティズムとメディア論という教養みたいな話を殆ど必ずメディア論を取ると習う。これは、プロテスタンティズム=キリスト教の現地化(キリスト教界隈の方がいたらすいません、凄い雑ですが他分野ではそう扱います)をした結果、「国語が誕生した」という話である。当時は聖書がラテン語(日本など漢字文化圏で言えば「漢文」)で独占されていたが、ルターの宗教改革以降、「国語」で聖書を読むことが進んだことにある(何で改革になったのってところは、あまりに逸れるので割愛)。当時、出版が発達したこともあり、結果として「国語共同体」とも言える、現在で言えばコミュニケーションの基本が国境の内部では「同化」、国境の外部では「差異化」された。勿論これ以外もナショナリズムナポレオン戦争だったり、資本主義だったりと色々あるが、メディアとナショナリズム、特にイメージの共有という意味で、主に文字の面から支えたのはメディアとしてあるだろう。当時はインターネットと同じくらいの革命として、イメージの共有を文字が担ったのである。何しろ「会話」と比べて、遠くへ同じ内容を伝えられる。現に今も文字を使っているが(映像と比べ格段に落ちるものの)それなりのリアリティは伝えられる。それが、メディア論としてのプロテスタンティズムである(キリスト教内部の話とは全く関係ないです)。そして、一度出来上がったナショナリズムは、あとは「自然化」して、ほとんど所与のものとして現在に至っている。たとえ映像だろうと音声だろうと、イメージの共有のためであれば、現在まで殆どナショナリズムから逃れがたいだろう。当然だが、イメージの共有と言っても全くの他人とは共有しづらい。「戦争」のイメージの共有は出来ても「太平洋戦争」ならどうだろうか。「戊辰戦争」なら?太平洋戦争は国ごとに違うだろうし、戊辰戦争などそもそも歴史教育を日本で受けていない限り殆ど国境線と同じだろう(例外は認めるし、そこに面白さがあるのは分かるが本論ではないのでご容赦を)。結局はメディアはナショナリズムで成り立つのである。それは左派もであり、震災のイメージの共有も、かなりの程度国境線と同じだろう。むしろ「同じ国民だからこそ訴求力がある」と感じている左派のが多数ではないだろうか。それくらい逃れがたいのである。

で、ここからFOX化との関係であるが、FOX化自体ははっきり言ってメディアの逃れがたい課題である。基本線としては「アメリカだから」とか「どれどれの法律のせい」とかではない。ナショナリズムの一つとしての現象である。ただFOX化にも特有のものがあるとしたら、やはり創設者ルパード・マードックである。ただ、ルパード・マードック自身は、必ずしも偏狭なナショナリストではない。少なくとも、チャンネル桜の社長ほどではない。彼自身は、かなり経済的合理性で動いてきている。気になる方は以下の番組をご覧頂きたい。現在の彼のナショナリズムは否定しないが、必ずしもナショナリストとして特別だから、ではないことはご納得いただけると思う(解説はジャーナリストであり、メディアの現場から放送を見てきた神保哲生さんなので、説得力はあると思う)。

メディアの公平性ってなんだ!?メディア帝王とジャーナリズム - 2015/09/19 21:30開始 - ニコニコ生放送

私も「FOX化」に懸念がないわけではない。ただ、それは安倍政権だから、でもないし、ましてやトランプ政権だから、でもないし、他の理由でもない。ありふれたナショナリズムをどうカッコにくくれるか、という教養の話である。無論これは左派にありがちな「特定のイデオロギーにコミットメントすれば解消出来る」とかいうたぐいの話でもない*4。ただ、この「教養」というのがかなり厄介で、というか難しい。知識としてはあっても、ナショナリズムというのは資本と同じくらい自然なシステムであり、システムから全く孤立するなど難しい。なのでカッコに入れるしかないが、そのカッコに入れるにしても難しい。お金だって、「私はあえて、高いけどいいものを買う」と言ってみたところで限度があるだろう。「搾取されるよりも生きがいで仕事だ」とか言ってみても、その欲望すら経営者によって「資本化」されてしまう。ナショナリズムも、言葉も習慣も全く通じない他人と同居出来るか?という動物としての当たり前の根源に基づいており、やっと数万人から数億まで「何を言っているかは分かる」というのを形作っているのげ現在なのである。そしてそこにメディアもある。「何を言っているかは分かる」は、文法や単語が分かるという意味であって、「意味がわかり、共感できる」までいくと、もっと小さくなるだろう。それがナショナリズムからまた進んだ先の現在の「ポピュリズム」である。私は少なくとも、現状をそう見ている。

で、FOX化というのは、ポピュリズムをうまく使いこなす、ポピュリズムの波に乗ったモノを言うと私は思う。ポピュリズムは右派だけの専売特許じゃない。ナショナリズムが左派にもあるように、ポピュリズムも動物としての動機が拭い去れない以上、左派も十分ポピュリスティックである。私はポピュリスティックは、感情に基づいている以上、全て悪くはないと思っているが(エンターテイメントの全てはポピュリスティックだろう)、政治の場に現れた時はさすがにカッコに括らないといけないと思っている。ただこれも難しいのでこの場では答えを出せないが。

そしてFOX化は、日本でも既に進んでいる。この記事の最初の方で商業主義について触れたが、日本はとっくにFOX化している。それはニュース女子だけを言うのではない。私は以前から、ワイドショーの報道化という言葉がピッタリなのではないかと思っている。それは、ワイドナショーやミヤネ屋、もっと前から起きていたとは思うが、最近でも「ワイドショーが言論を独占する」現象は珍しくないどころか日常化していると思う。ワイドショーは決して報道番組ではない、と思いたいが、昨今はあれが報道番組として消費されているので、報道化、ではなくそれが普通かもしれない。そしてその普通が結果として、「報道」自体の存在を本質から変えようとしている。

まず、報道は「社会問題を代表するもの」だと、私は定義する。この場合代表とは、リプレゼント、象徴という意味である。政治学で言うところの間接民主主義である。あまり細かいところに立ち入らないが、間接民主主義とは決して妥協とかそういうネガティブなものだけではない、そこには人間が対話し、気づきを与えてくれる場である。昨今の政治状況を思うととてもそう見えないかもしれないが、単に欲望をやり取りしても、人間社会は成り立たない。そこには「対話」、コミュニケーション、相互理解が必要である。そして報道とは、社会と当事者との対話を促すものだと私は考える。そこには単に、「報道番組」という作り手だけでなく、取材対象の当事者や受け手もおり、最終的には当事者と社会とが互いに何かしらに気づきを得て、再び出会う場を作れるものだと考える。無論これは理想像ではあるが、そういうものがないとしたら、単なる伝送路であり、知らない他人を何も前提条件なしに盗み見ただけのものとなるだろう(意外とそういうのは多いのが残念である)。

では、「ワイドショーの報道化」とは何か。ワイドショーとはここでは、情報番組、つまり「実生活に役立つ知恵を得たり、エンターテイメントを消費する場」のことである。最近は「報道化」しているからややこしいが、元々はそうだと思う。そして「報道化」した結果、私たちはワイドショーを必ずしも全く別というよりも、「難しい事を難しい言葉で話してるのが報道番組で、難しいかもしれないけど簡単に話してるのがワイドショー」という感じで受け取る人が増えていると思う*5

この難しい/簡単という感覚は結構強くて、人間は「分かりやすいと正しそうで、難しいと判断つかないかむしろ間違ってそう」と理解するらしい。専門ではないので「そうなのか」レベルで聞いてほしいが、確かに実感と合っていると思う。

そして、結果として「ワイドショーの報道化」によって、報道番組で扱うようなネタもたまにか、むしろそれを売りにした「ワイドショー」や右に振り切った「ニュース女子」などがもてはやされている。ただし、分かりやすい事自体が問題というよりかは、「そもそも対話ってそんなに分かりやすいか?」というのが私自身の問題意識である。

純粋にワイドショーなら別に分かりやすいのもいいと思う。例えば、「美味しいカレーってなんだろ」とかいう事をテーマにするなら、「対話性」というのはほとんどなく、「あれもこれもいいよな」とか「これはネタとしてだけど、甘口の人とは無理だわあ」とかそういうレベルで収まるからである。別に難しい話などいらない。単純にそれぞれのセンスを傷つけない範囲で扱えばいいからである。

でも対話というのは、時にはどちらか、もしくはどちらも「傷つく」ものだと思う。傷つくということの中には、「傷ついた結果変わる」ことも含まれる。勿論弱者/マイノリティを傷つけるのは目的ではないが、少なくとも「報道」する場合社会は変化を求められるし、マイノリティ側も社会の葛藤を踏まえた上で最初の思いと多少変わりつつ、互いに歩み寄るものだと思う。時に「すれ違って」失敗することもある。それが対話だと私は思う。

そういう対話性を扱わねばならない報道番組と、分かりやすいものとして扱う、言い換えれば誰も傷つかないのを扱うのがワイドショー。本質的に違うのである。無論報道番組自体、時に(というか殆どだから困るが)対話性を欠いたままマイノリティを「問題」化して、理解不能なもの、悪魔化してしまうのが無いとは言わない。ただそれを肯定するのが多分に「ワイドショー」なのである。相手は理解しなくていい、ただ「知識」として得られればいい。なぜなら分かりやすいのがいいからだ。私は傷つかなくていい、相手は傷ついていたとしても。それが私はワイドショーの報道化の負の側面だと思う。実際ワイドショーで扱った結果「失敗」しているのが多い。分かりやすいところなら「宮崎勤事件からのオタクバッシング」であり(コミケ会場を指して、「ここに何万人もの宮崎勤がいます」などは「悪魔化」だろう)、右派はかなりそうだろうが「中国人・韓国人」の悪魔化である。相手を人間としてみないのに、人間を扱う。こうなると最悪である。単なる差別である。ワイドショーの報道化によって全てがそうだとは言わないが、自覚すらないのが私は怖い。

ここで多少「池上彰批判」をしたいと思う。この場合の池上彰とは、テレ東での選挙特番の池上彰ではなく、ところどころで社会問題を分かりやすく扱っているあの「池上彰」である。全てを見ていないので再批判は甘んじて受けるが、あの池上彰は「一見中立のその実ナショナリズムに加担している事を自覚させない」ものである。先程触れた、左派も右派も逃れがたいナショナリズムポピュリズムのことである。別にナショナリズムポピュリズムを捨てろとは言わないが、多分池上彰だけ見てても、ナショナリズムポピュリズムを自覚することはあまりないだろう。なぜなら「間違っていない事を分かりやすく伝える」のがあの池上彰だからである。そこには対話性はいらない。あれを見ている日本人の気持ちを逆撫でないように、うまく納得出来るように作るからである。そして対話性を大事にしたいなら、情報エンタメとしての池上彰だけを見てても何も育たないと思う。池上彰本人は、「情報の整理」をしているつもりだけかもしれないが、時に中立とはそういう危うさがある。ずっと中立のところにとか思ってると、次第に「私が傷つかないのが正しい情報」と錯覚していくのである。あくまでも受け手の問題とも言えるが、そういう受け手ばかりになると次第に受け手の理解度に合わせて「中立」も移動するから最初いたところと別のところに移動していく。そして大抵は左派も右派もナショナリズムポピュリズムから逃れがたいのだから、中立自体もナショナリズムポピュリズムへ寄っていく。

これはあくまでもそうなるおそれがある、というだけであるが、何が「中立」かは最初から決まっておらず、それを常に探していくのが私は大事と思っているから、最初から与えられた中立などクソ食らえだという意味に理解してもらいたい(無論私自身へ返ってくるブーメランなところが9割だと思うが)。

かなり長くなったが、私は「FOX化」をこういうふうに哲学的/思弁的に捉えたい。少なくとも左派が「ある特定の悪いやつがいて/悪いものがあって、それを直せばいい」という事では決してないと言いたい。無論右派にとっては「分かりやすくて上等、ナショナリズムで上等、私が幸せならいい」という人ならば、最初から聞く価値無いからブラウザバックでいいと思う(ホントは左派/右派自体分けたくないが、話しやすいのでこういうことにした。ただ、私は西部邁先生のような「理性自体にも懐疑主義を」という立場であり、またナショナリズム自体は良いこともあると思っているので、左派からは「おめえは冷笑系か何かか」というそしりは受けても良いとは思う。それだけ難しいことなのである)。

結論:自由化自体は賛成だし、その方がクリエイティブ。だけど、言論を名乗るなら「自省」も必要。

で、結論であるが、今回の放送法改正自体は、総論としては良いと思う。特に技術的な面で現状を無視出来ないので仕方ないだろう。アメリカでもケーブル放送が広まった結果、フェアネスドクトリン=政治的公平性を手放さざるを得なかったのだから、日本だけ抵抗出来ると思うほうが間違っている。間違っていないなら、インターネットを政治的公平性にさせて欲しい。私も政治的公平性はそりゃ欲しいが、ないものねだりである。ここではあまり語らないが、そもそもネットは政治的だけでなく、商業的、俗っぽく言えば「オタク」的として見ても多様である。何か特定の正しさがあるわけではない。時に、見るものの神経を逆なでるようなものもあるけれども、それが公共の福祉に反しなければ、放って置くほうがいいのである。放送が積極的にそうなれとも思わないが、そういう可能性を広げる「放送と通信の融合」自体は否定できない。

NHKは不思議なメディアで、右派からも左派からも評判が悪い。それはある意味「中立」だからだろう。しかしあえて言うならNHK的視点もあっていい。ただ、それはNHKだけが独占していいものでもない。もっと多様な「NHK」があっていいのだ。公共とは特定の一者が担えるものではなくて、公共をポジティブにみんなが出しあって対話したらいい。それはまさにインターネット世界(の理想面だけではあるが)だろう。ようやく放送業界も、インターネット世界を後追いしているのだ。

ただし各論では、商業主義や「中立とは何か」を考える上で、まだまだ日本に足りないのは多いだろう。商業主義は明らかに広告代理店がブーストしているし、主に言論に関わる「中立」についてはそもそも日本ではメディアリテラシー教育が根付いているとは言えず「メディアが悪いのは、特定のイデオロギーのせいだ、もしくは書き手がイデオロギー的だからだ」とか粗雑なメディアリテラシーが9割だからである。大文字の政治をイメージして、「ナショナリズムポピュリズム」について述べてきたが、実際は事はもっと複雑で、アイデンティティ問題、俗っぽく言えば「私の世界を大切にさせて」という、欲望問題という小文字の政治もますます大きくなっているのだ。小文字の政治はもっと難しいが、「問題」としてくくれる力、問題として認識しつつも相対化出来る力がますます求められるのが、現在なのだろう。技術的に解決出来る事も多いかもしれないが、今は過渡期である。

別に経営や経済全てに詳しくあれ、とは言わないが(私も殆ど知らない)、少なくとも「今日天気がいいのは、神様のおかげじゃなくて、高気圧が日本列島に居座っているせい」程度のリテラシーを身につけたほうがいいのでは、と思っている。ただし問題は自然科学以上に、社会科学ないしは人文科学は、「当たり前」を疑い、時に修行的なところがあるから、殆どの人が放棄してしまうのである。

ご存知の通り、インターネット世界はとっくに「砂漠的」である。辛うじてあるオアシスをみんながシェアしてるが、ひとたびそこから出れば、砂漠しかない。嫌なことばかりである。この場合のオアシスとは、各人が消費するそれぞれのコンテンツであり、砂漠とは、自分の感性に合わないモノ全てである。砂漠は嫌だが、かといってその砂漠は誰かのオアシスでもある。故に互いに対立する。ならば引きこもっていた方が良い。当たり前の感性だと思う。

そして互いに引きこもった結果、外の世界を指してこうつぶやくのである。

「この番組が悪いのは〇〇のせい」。少なくとも、たった2字かそこらで要約しようとしている人がいた時点で終わりである。安倍、反日電通云々。そんなのばかり見たあとで書いた文章です。

 

※2018/3/16 05:52 誤字脱字修正、脚注使って見栄え意識。

参考書籍

哲学的なことは林香里先生に依っています。

マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心

マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心

 

 立ち読みで悪いが、それなりにコンパクトに林先生の言うことまとまっていた気がするので、初めて触れるならこっちのがいいかも。

メディア不信――何が問われているのか (岩波新書)

メディア不信――何が問われているのか (岩波新書)

 

イデオロギー的には好まないが、ある意味「リアリスティック」なことを言うので、左派から見てもそれなりに有用。少なくとも、「政治的公平性」と「メディア生態学」を考える上では、一読はしてもいい。

 こちらは同じ問題、つまり「『放送法遵守を求める視聴者の会』問題」を研究者目線で見た方。

放送法と権力

放送法と権力

 

書き終わってから思い出したが、散々神保哲生さんと木村草太先生が語り尽くしていたので、これ見れば終わる気もする。


安倍政権の放送法の解釈は間違っている


放送法の中立公平はいかに担保されるべきか

*1:あとで貶すので先に褒めておくと、チャンネル桜社長もドキュメンタリー作家としてはそれなりに評価していいと思う。

*2:本筋ではないし、特に詳しくもないので省くが日本で商業主義とドキュメンタリーを兼ねられるのは「ドラマ」である。すべてのものとは言わないが、極めて作家的かつドキュメンタリー的なドラマもあるにはある。今期は「弟の夫」を見ているが、好例だと思う。

*3:これは何故か右派のが敏感だったが(三橋貴明氏が解説していたのが大きいらしい)郷原信郎氏が、「リニア談合事件」について書いていた。氏によれば「談合は目的としていたのではなく、談合せざるを得ない状況になったのが悪く、今回の事件は事件ですらない」らしい。確かに「談合は悪」というところでしか地上波では見られず、解説するにしても5分程度じゃ収まりきらないので、分析すらできないと思った。

*4:左派ですらなくてこれは全体主義という名こそなくてもそこらへんに落ちてる夢想主義だと思うし、ネトウヨとかパヨクとか宮台真司の言葉を借りれば「言葉の自動機械」である

*5:最近生まれた人ほどワイドショーと報道番組を峻別する習慣自体無いかもしれない。あくまでもメディア論としては歴史性も見るのでそういう感じということで受け取って欲しい。